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10月28日(日) 霎時施(こさめときどきふる) 旧暦9月19日
昨日は小さな山に登った。 里山の晩秋の風景である。 大きな朴の木。 大分枯れがすすんでいる。 何を見上げているのだろう。 この日さまざまな鳥声が聞こえたが、とりわけジョウビタキの声がよく聞こえた。 ときどき民家があらわれる。 二階からこっちを見ているものがいる。 シロクマだ。 いよいよ紅葉の季節になる。 今度ここに来るときはすでに冬となっているだろう。 ひさしぶりに会ったこゆきちゃん。 石田郷子さんの愛猫である。 すでに老嬢。 この椅子を占領してびくともせず、ワインをご馳走になった時、わたしはこの椅子のはじっこに座らせてもらったのだった。 たくさんこゆきちゃんを撫でることができ、大満足。 今日の朝日新聞の青木亮人さんによる「俳句時評」は、「小さな驚き」と題して4冊の句集がとりあげられている。 朝日新聞は手にはいりやすいので、全文を引用することはひかえるが、とりあげられたのは、川島葵句集『ささら水』(ふらんす堂)、堀切克洋句集『尺蠖の道』(文学の森)、三村純也句集『一(はじめ)』、岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』(青磁社)である。 抜粋して紹介したい。 俳句は短く、季語もある。小説や詩、短歌とも異なる詩型をいかに詠み、読めばいいのか。川島葵の『ささら水』所収句を見てみよう。 えんぴつに蜘蛛が片脚掛けてゐる 夏のやや整理された机上だろうか。鉛筆に「蜘蛛が片脚掛けて」じっとしているのだ。日常の無意味に近い些事を発見し、子どものように魅入る様子が平仮名「えんぴつ」にも示されている。 日常の発見でいえば、堀切克洋『尺蠖の道』も見てみよう。 桐一葉いつも位置に易者来て (略) この二句の共通点は日常の些事を興かるまなざしである。四季に彩られた日々の中にふと見える日常のひとときに出会った時、無意味とも思える自身の驚きと些事を興がりつつ詠むのが俳句の特徴といえよう。 三村純也句集『一』よりは、 鳥の巣のこんな低さに何でまた 岡田一実句集『記憶における沼とその他の在処』よりは、 暗渠より開渠へ落葉浮き届く を挙げ、 退屈で、見慣れたはずの日常にふと見知らぬ世界が広がっていることに驚く感性。その小さな不思議を詠み、また読むのが、俳句の醍醐味である。 と評している。
by fragie777
| 2018-10-28 18:38
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