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10月24日(水) 霜始降(しもはじめてふる) 旧暦9月16日
よく知っている武蔵野の椋の木。 わたしはよく知っているが、この椋の木はわたしのことを知っているかどうかはわからない。 頼もしい椋の木である。 枝の張り方がはればれとしていて見事。 よく見ると黒い実をたくさんつけている。 椋鳥が好むところから「椋」と言われるとも。 「とても甘いのよ」って言いながら友人はひとつを口にいれた。 下をみたら、生っている以上の実がたくさん落ちていた。 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイル 96頁 田窪与思子(たくぼ・よしこ)さんの前詩集『水中花』につぐ新詩集である。 頁をひらけば、本詩集は「彼女」と「あたし」という二つの項目が立てられ、「彼女」には9篇の詩、「あたし」には15篇の詩が収められている。 栞を寄せているのは、詩人の吉田文憲氏と野村喜和夫氏。 吉田文憲氏のタイトルは「『つかむことのできない光」を求めて」。抜粋して紹介したい。 「彼女」は、いまの「あたし」なのだろうか。「彼女」はだれ? 「あたし」はだれ? 詩集のなかの「幻の話者」は、そう呟いているようにみえる。(略) 集中「タクシー」という詩に、 つかむことのできない光が、遠ざかる。 という、詩集全体を象徴するような鮮やかな一行がある。「だれ」とは関係性の言葉である。かつて隠れたものは「彼女」とともにいたのだ。あるいは「あたし」とともにいたのだ。。隠れたもの。 連れとは、今もかくれんぼ。 どこ? どこ? どこ? どこに逝ったの? 隠れたものの中心には、詩集後半にさり気なく出てくるかつての「連れ合い」の姿があるだろう。「タクシー」という詩は、ブリュッセルとパリの深夜の移動風景を語る。(略)ブリュッセルやパリでの海外体験は、田窪氏をどこへ運び去り、どこへ帰国させたのか。田窪氏にとって日本はいつも「ニッポン」であり《あたしのニッポン、宙(ちゅう)に浮き、/見えない羽衣、宙(そら)に舞う。》(「キモノ」)、「ここ」もまたどこか異国のようである。あるいは「どこでもない場所」のようでもある。 野村喜和夫氏のタイトルは「五次元に向かう感動」。 田窪与思子さん、あなたにとって「記憶」は、「移動」とともに最も重要な詩作のテーマでした。ところが、いまやそこに現在が流れ込み、圧倒するまでになっています。ぼくには当初、『水中花』からの立てつづけの詩集刊行をややいぶかしく思う気持ちがありましたが、『移動遊園地』制作には、要するに「記憶」を乗り越えた、あるいは少なくとも「記憶」と釣り合う「あたし」の現在を書きたいという、詩人主体の切実な思いがこめられていたのでした。そのことがいま、読者のぼくにも手に取るようにわかります。「あたし」はすでに生の悲哀のなかにいる。いや、老犬「メルシー」という新しいパートナーができて、彼女と生の悲哀を共有しつつ、「あたし」自身の消失までをもすでにイメージするに至っている。「五次元に向かう線路」を遠望するに至っている。。どころか、「き、ら、き、ら、きらきら、きらきら。/川面で輝く光は、天上からのモールス符号」。そして最後のページにあらわれる「黄色いチョウ」は、まぎれもなく他界からの使者でしょう。 田窪与思子さん、あなたの「あたし」はその生き物に近寄り、伝言を聴こうとしています。「羽がふるえ、空気が振動する。/伝言はなあに?」でもそれは、聴き取れない、いや聴き取ったとしても通常の言葉にはならないメッセージかもしれません。 本詩集の担当は文己さん。 文己さんの好きな詩を紹介したい。 遊歩者(フラヌール) ところで、彼女は徘徊する。 路地から路地へと、 ふらふら、フラヌール、遊歩者。 犬や猫に挨拶をし、 土地の嘆きを聞き、 沈みゆく太陽を凝視して、呟く。 ニッポン、ふらふら、フラダンス。 コウベの元町を歩けば、 ブリュッセルのパサージュ、「ギャルリー・サンチュベール」が甦る。 カフェ「オーバカナル」でパリを想う時、 隅田川はセーヌ川で、 伊勢丹は「ギャルリー・ラファイエット」。 神戸屋のクロワッサンすらも運ぶよ、 「カフェ・ダゲール」の朝。 けれど、彼女はニセモノ、偽りのフラヌール。 闇夜を避け、 アブサントや麻薬(ヤク)には手を出さない。 安全地帯で、ふらふら、フラヌール、遊歩者。 囲いの中のリベラル。 牧場(まきば)のブラックシープ。 あゝ、ミドルクラス・モラリティ、 幼き頃の刷り込みよ。 それでも行き着く先はおんなじと、 バスタブに身を沈め、 心、ふらふら、フラヌール、遊歩者。 泡となった記憶は水と共に排水管。 浴びたい、浴びたい、母音のシャワー。 アロハ、マハロ、ふらふら、フラダンス。 引っ越ししましょか、海辺の町に。 メリケン波止場から船に乗り、 終の棲家を探しましょ。 ふらふら、フラヌール、遊歩者。 「ふらんす堂らしい、上品でゴージャスなペーパーバックにしてほしいとのご希望。 ピンクと緑がお好きで、悩まれてピンクにされました。」と文己さん。 装幀にただようチャーミング感は、著者の田窪与思子さんによく合っている。 もう一篇、文己さんの好きな詩を紹介したい。 シャッポ エンドロールが終わらぬうちに席を立った。 やけに明るいシネマコンプレックスのロビーには、 熊のパディントンがいた。 帽子が、 いつも帽子を被っていた人の棺に入れた物に似ていた。 なぜか、祖母も母も、 帽子のことをシャッポと呼んだ。 シャポォ(c h a p e a u)ではなく、シャッポ。 あゝ、シャッポ。 たくさん編んだのに自分では被らなかった、 祖母の、毛糸のシャッポ。 凪いだ海に糸を垂らした、 祖父の、休日の麦わら帽。 ノースリーブのワンピースにハイヒール。 ハイカラで、見栄っ張りの母と、 夏の神戸を闊歩した、 ツバの広いシャッポ。 単身赴任していたアメリカから持ち帰った、 無粋な父の、パナマ帽。 ニッポンでは被らず、 愛用したのは、くしゃくしゃシャッポ。 あゝ、シャッポ。 皇族たちの帽子、 エノケンの山高帽、手塚治虫のベレー帽、 シャッポも記号なの? 桃色ドレスにマッシュルームハット。 そんないで立ちに憧れるけれど、 黒いプラスチックのサンバイザーが顔を覆う。 夏のあたしは、黒い点。 メルシーと散歩していると、 頭に黄色いシャッポをのせた小学生が、 大人びた口調で、サンバイザーに尋ねた。 犬種はトイプードルですか? 毎朝、学校に吸い込まれる子供たち。 まあるいシャッポを被った小学生は、 まるで小さな兵隊さん…… 突然、三ノ宮駅にいた、傷痍軍人の帽子が甦る…… 作品にしばし顔をだす犬のメルシーは、お母さまが飼われていたのを田窪さんが引き取って世話をしている老犬である。この詩篇のあとに「犬」と題してメルシーが登場する。 「作中にも出てくる老犬メルシーちゃんの想像を超えた壮絶な介護生活、私も犬を飼っているので心が苦しいです……。」と文己さん。 本詩集の装丁は和兎さん。 光輝く用紙にショッキングピンク、そしてところどころ金箔押し、という派手なものであるが、下品ではけっしてない。いやいやなかなか愛らしい詩集となったのではないだろうか。 扉もショッキングピンク。 欧米のブックストアにあるような素敵なペーパーバッグが出来上がってきてとても嬉しいです。 お配りした皆さま一様に表紙を絶賛されます。 (で、詩は? と心の中で突っ込みを入れております・・・・・・) 田窪与思子さんからのメールである。そして、 「パターソン」という映画を観た時に、タイトルを先に決めたり、着替えをきちんと畳んだり、毎日判で押したような生活をしたりしながら詩を書いている主人公に親近感を覚えました。 これからもマイペースで詩を書いてゆく所存でございます。 と書かれていた。 パターソンのように、いいですね! あの映画はわたしも好き。 そして わたしの好きな詩篇は「手」。 その「手」より。 好き、嫌い、好き、嫌い、嫌い、嫌い。 あたしはあたしが嫌いだったから、 体育館でのダンスパーティでは壁の花。 金髪の「花咲く乙女たちのかげ」で呟いた。 ツイストぐらい踊れるわ。 つり革の向こうに多摩川が見えた。 車窓の風景が飛んでいき、 むかしの記憶も飛んでいく。 空(そら)の向こうは空(くう)だから、 今のあたしは、あたしが大好きで、 あたしの手も大好きなのよ、お嬢さん。 この箇所、すごく共感してしまう。なんか分かるなあ。 しかし、わたしは「壁の花」であっても、ツイストは踊れない。
by fragie777
| 2018-10-24 19:39
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