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10月23日(火) 霜降(そうこう) 旧暦9月15日
秋の鰻つかみ。 目立たない小さな花だが、こうしてみると愛らしい。 今日はお天気になる予定であったのに、そうとはならずけっこう寒い。 スタッフたち皆が帰ってしまった仕事場は急に冷え混んで、わたしはスカーフを首にまいた。 新聞記事を紹介したい。 山梨新報の10月5日(金)の「本」のコーナーに、『福田甲子雄全句集』と三森鉄治句集『山稜』が紹介されている。「山梨の山河を愛した2俳人ー福田、三森両氏の遺作集出版」とある。 ふるさと山梨の山河を、こよなく愛した2人の俳人の遺作集が期せずして同時に発刊された。福田甲子雄氏(南アルプス市飯野)の『福田甲子雄全句集』と三森鉄治氏(甲州市勝沼町)の『山稜』である。 福田氏の代表作「ふるさとの土に溶けゆく花曇り」は飯野の妙善寺の墓地にも句碑があり、絶唱でもある。代表作には「稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空」「生誕も死も花冷えの寝間ひとつ」も挙げられる。 飯田蛇笏、龍太氏に師事、「藁火」「青蝉」「白根山麓」「山の風」「盆地の灯」「草虱」「師の掌」などがある。元「雲母」「白露」同人、「読売俳壇」選者。2005年4月、77歳で没。 三森氏は公立中学校の教師をしながら句作に励み、15年10月、56歳の若さで病没した。妹の赤星美佐さんによると晩年の病室で「まだやりたいことがある。俳句も作れないじゃ、生きた屍になってしまう」と嘆いたという。 「またの世も師を追ふ秋の螢かな」が絶唱だが、「秋風や即身仏の眼窩に目」「哀しみは詩の種嶺は銀河落つ」などの句がある。『山稜』は第6句集。広瀬直人氏に師事。元「白露」同人。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装 334頁 大冊である。 帯には、『自註現代俳句シリーズ・Ⅳ期 20 菊池麻風集』(俳人協会刊)収録の300句とその自註を、麻風没後の昭和58年1月から平成20年までの約25年間、「麻」誌に連載された珠玉の再誦。菊池麻風の顕彰には必読の一書。とある。 著者は、俳誌「麻」主宰の嶋田麻紀氏。 嶋田麻紀氏は、1944年生まれ、1963年から1969年まで渡辺水巴門の菊池麻風宅から通学通勤、1968年「麻」創刊に参加し、麻風に師事、1984年1月に「麻」を継承し主宰となる。 このへんのことを、嶋田氏は、「あとがき」にこう書かれている。 私は昭和三八年四月から、昭和四四年四月に結婚するまで麻風居の二階に住み、文部省図書館職員養成所に通学、商工組合中央金庫調査部にも通勤。結婚後は月一回の麻の例会に必ず泊りがけで出掛け、麻風夫人が亡くなる平成二年まで中野の家の世話になった。麻風が亡くなったのは、昭和五七年六月四日で、麻風夫人は月刊で俳誌を引継ぐことのたいへんさを承知していたのと、私が未だ三七歳という年齢であったことなど、諸般の事情を考えておられたがともかく、最晩年の麻風から「麻」の選を委ねられていたことや、麻風追悼号を出さなければという使命感が私にはあって、半年間追悼号を出すうちに、会員の去就もかたまって、五八年一月、俳句文学館に於て「菊池麻風先生を偲ぶ麻十五周年大会」を開催、正式に私が「麻」を引継ぐことになったのである。 本書は、菊池麻風の300句とその自解、そしてそれに対して「再誦(さいじゅ)」というかたちで嶋田氏が文章を寄せたものである。基本的には、一頁に一句で終わらせるようにし、時として2頁におよぶこともある。 麻風の代表句にふれることができ、またその自解があり、さらにそれを補足し膨らますかたちで「再誦」があり、読み物としても読みごたえのある一書となっている。 まず麻風の作品と制作年代を配し、自解はゴチックで、再誦は読み切りのかたちとなっている。 読者は、麻風の作品のみを読むこともでき、あるいは次は自解とともに、そして「再誦」へと、重曹的に一書を楽しむことができるのである。また、巻末には菊池麻風の年譜を付し、初句索引、季語索引もあるので菊池麻風研究にはかかせない資料となる。 菊池麻風について、「現代俳句事典」(「俳句」昭和52年9月臨時増刊)から抜粋して紹介したい。 明治35年4月15日、栃木県に生る。本名新一。昭和3年より渡辺水巴に師事、4年「曲水」同人となる。23年「曲水」に新設された雑詠選者となる。25年年初、物故した齋藤空華の句集を長沢ゆたか、中島刻非、齋藤兼輔らと編集上梓した。28年以降、約10年間作句から遠ざかる。40年9月号より翌41年10月まで「曲水」の編集を担当。在来の守旧的誌面を刷新した。42年8月「曲水」を離脱。43年1月「麻」を創刊主宰する。 本書は、戦前、戦中、戦後に亘っての麻風の作品を時間軸にしたがって読みすすむもの。作品は自解から厳しい時代状況も伺い知ることができ、あるいは、再誦によって同時代を生きた俳人たちとの交流や、麻風についての思い出など、興味はつきない。 たくさんの句を紹介したいがここでは数句にとどめる。(句にはルビが付してあるが省略)麻風の自解は緑、再誦は青。 日輪に目つむり枯草にゐる 昭和一五年作 定型というより自由律だ。曲水の例会に出してみたところ、水巴師の選に入り、型式の点についても却って賞讃された。 麻風の初期の代表作の一つ。麻風自身この句を愛好していたのか、短冊などにもよく口誦みつつ書いていた。昭和一五年といえば、新興俳句運動から人間探求派への賛成、同調、非難等の論議が盛んだったときであり、二月には「京大俳句」関係の俳人が、無季俳句が伝統の破壊、自由の理念が西欧的、結社の意味が政治的ととられたことで検挙される事件がおきている。虚子から水巴への、いわゆる花鳥諷詠派、伝統派にとっては対岸の火事であったかも知れないが、虚子が昭和一六年になって「二千六百一年句話」の中で「自由律とか無季の句は俳句でないとして、俳句圏外のものとして之を、取扱つて来たのであるが、今度日本俳句作家協会が結成さるるに当つて其等も亦俳句圏内のものとして」認めたことを思えば、水巴のほうが早くから柔軟に対処していたように想像される。近代詩文のような掲句をよしとした水巴の感性の鋭さと、若い麻風が従来の俳句とは別の実験的な俳句意欲を持っていたことをうかがわせる一句である。 あをぞらの香のはげしさや夜の菊 昭和二一年作 渡辺水巴八月十三日鵠沼に逝く。「水巴先生を偲ぶ」の前書がある。 水巴(明治一五年六月一六日~昭和二一年八月一三日)は、花鳥画家として知られた渡辺省亭の長男として浅草に生れ、江戸趣味の気風を自然に身につけて育っている。若くして内藤鳴雪に師事、明治三九年には「俳諧草誌」創刊(四二年廃刊)、情調本位の俳句を標榜して大正二年曲水吟社設立、五年に「曲水」創刊。新傾向俳句に反して虚子が「ホトトギス」に復帰してから雑詠欄に投句、鬼城、蛇笏、石鼎、普羅等と大正期「ホトトギス」の黄金時代を築いた俳人。「虚子は『進むべき俳句の道』で水巴を筆頭に推称している」というのが、師・水巴を語るとき麻風がよく口にした言葉だった。大正七年の省亭逝去後の水巴には父の画債や生活苦があったようで、句風も江戸趣味と潔癖、清冽な情調から、人生的内面の深さを加えたものに変化したといわれる。 掲句は水巴を偲んでの作。あをぞらの香に亡き師への鑚仰の気持が滲みでており、「曲水」に学んだ人らしい唯美性を感じさせられる悼句でもある。菊池麻風はこの時四四歳であった。 冬泉人らそこまで来きて返す 昭和四六年作 われもまたその一人、枯れを来て。 「波郷に〈泉への道後れゆく安けさよ〉という句があってねぇ、困ったと思ったのだけれど、ま、詠っている中身は違うから、いいかと思うンだよ」と、麻風が言っていたような記憶がある。波郷の句は句集『春嵐』所収。昭和二七年の句で、調べてみると「森の家」という抄にあり、その抄は「安中町・堀口星眠君の生家見ゆ」という前書のある〈七夕の家木隠れつ碓氷川〉に始まっている。波郷四〇歳の時の作だがどこか老成した心境句で、大家の風貌がみえ、ひとに後れて悠々と泉へ歩む波郷がみえてくるような句である。掲出の麻風句は客観的であり、麻風らしい息づかいがある。 波郷と麻風の交流は、『空華句集』の序を波郷に依頼することから始まっているが、麻風にとって波郷は、いつもお手本となる高峯であったと思う。麻風の第一句集『春嵐』は昭和三九年刊、波郷の『春嵐』は昭和三二年、句集名を決めるときも、麻風はそのことをいっていたような気がする。麻風が句集名を採った〈わが句帖むしろ焼くべし春嵐〉の句も、波郷に対して発せられていたと私は心密かに思う日もあったのである。 本書を編もうとした思いを嶋田麻紀氏は、「あとがき」でこのように書いている。 麻風逝去のとき二四頁の紙幅だった「麻」も現在八〇頁で、本年(二〇一八年)は創刊五〇周年の大きな節目を迎えることになった。会員も高齢化したし、私が「麻」を引継いでからまもなく三五年となるので、創刊者の作も人柄も知らない方が殖えている。この再誦が麻風を知るきっかけとなれば幸いである。 25年間の長きに亘って、嶋田麻紀氏が「麻」に連載したものを短縮して一本とされたとも書かれている。本書は、「麻」につどう人たちのみならず、21世紀に俳人・菊池麻風を甦らせる好著である。 本書の装丁は和兎さん。 大冊で分厚いものとなるので、あまり重くれたものとならないことを心掛けた。 表紙は淡いピンク。 これは嶋田麻紀氏のご希望である。 扉。 栞紐は肌色。 なかなかスマートな風貌だ。 麻風晩年の句よりもう一句のみ紹介したい。 余生などわれになし年行き来る 昭和五六年作 余生などと詠ったこともない。残り少ない生ではあるが、余生などとは思わない。 麻風が「麻」を創刊したのは六四歳。三菱銀行を定年退職して、和光電気の総務部長の職も辞し悠々自適の生活に入ってからである。麻風の理想としては一誌など持たず、村山古郷氏のように、書きたいものだけ書き、「曲水」での作句活動を継続しつつ、多くの時間は好きな本でも読んで過ごすというライフスタイル。しかし、予定通りには運ばないのが人生で、一誌を持たざるを得ないことになった。それはそれとして、結社はこうあるべきという理想に燃えてのことだから、麻風としては本望であったろう。時に運営に倦み、会員の勝手な言動に悩み、苦杯をなめたとしても……。 生涯現役とまで思っていたかどうかは別として、安易に余生ですからと言う人に対して苛立ちを隠せなかったことは事実で、余生俳句と孫俳句は、全く選出しなかった。いずれも句の中にある弱さや甘さを嫌悪したのである。余生余生といって、人生に正面から向き合わず安易に過ごしてしまうのはどうかという批判を、いつも抱いていたと思う。 寒禽の一羽が去れば一羽来る 麻風 今日はひとりお客様がいらっしゃった。 髙橋白崔(はくさい)さん。 第二句集の句稿を持ってのご来社だ。 白崔さんは、現在「椋」所属、かつては山田みづえ主宰の「木語」に所属しておられた。 第1句集『清拭』は、2008年の刊行。 終刊まで在籍していた「木語」時代の作品を収録したものである。 「もうあれから10年経ってしまったんですよね」と感慨深そうに言われる。 第2句集は、「椋」に所属されてからの作品を中心に、かつての職場句会のメンバーたちとの「二火(にか)の会」の作品を加えたものである。 いまは、椋の句会を中心に、元「木語」の方々との句会、「二火の会」の句会、指導されている句会もいくつかあり、 「かなり忙しいんです」とおっしゃってにっこりされた。 句集名は「無役(むやく)」。 「題は、永年勤めた会社の役職を解かれた折に浮かんだ一句から採りました。それにつけても俳句が無ければさぞ辛い定年だったろうと今更ながら思います」 と「あとがき」に記されている。
by fragie777
| 2018-10-23 20:49
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