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10月19日(金) 旧暦9月11日
溝蕎麦。 今日は一日中「ふらんす堂通信」のゲラを読む。 この158号で終わる連載が二つ、そして石田郷子選の雑詠集「なづな集」も今回が最後となる。 次号からは髙田正子選「花実集」となる。 石田郷子さんには長い間心を尽くして「なずな集」にとり組んでいただいた。 連載は詩人の杉本徹さんの連載「十七時の光にふれて」は45回目をもって最終回となった。 現代詩を書く詩人がとり組んだ俳句批評だった。 言語表現をするものとして俳句をどう読むか、俳人の読みとはことなる世界へと導きだされて新しい光が当てられる、その読みは新鮮だった。 最終回の今回は、杉本徹さんが敬愛する俳人へのオマージュとして詩を寄せている。 その俳人とは誰か。 「通信」を読んでいただきたい。 関悦史さんの連載は「BLな俳句」、こちらは23回をもって終わる。 「BLって、何?」という読者もおられて戸惑われた方もおられるかもしれないが、「BL=ボーイズラブ」はいまや、一大ジャンルとしてその地位を獲得したといっても過言ではない。 老若男女を問わず、性別を超えこころゆさぶるものとして世界を席巻しつつあるのである。 そのBLに関さんは、俳句の読みと自身の作品をもって果敢に挑戦してくださった。 三人の方々に心からの感謝を申し上げたい。 ありがとうございました。 新刊紹介をしたい。 俳人・日下野由季(ひがの・ゆき)さんの句集『祈りの天』(2007)に次ぐ第2句集である。 「あとがき」によると、 十代から二十代の句を収めた第一句集から約十年。ここに私の三十代の句を収めました。三十代の十年間は、ひとりの女性として、これかの人生をどう生きていきたいのかと自らに問い、思い悩む葛藤の日々であったように思います。たくさん迷い、考え、決断し、前を向きながら一歩一歩進んできたその道のりが、この一冊になりました。 そして、三十代の終りに生涯の伴侶と出会い、小さないのちを授かりました。私のゆく先は、この出会いを育むところから、また新たに始まっていきます。 とあり、30代を記念する一冊である。 栞は大木あまりさんが寄せている。「永遠なる木椅子」と題する文章は俳人の先輩としてのあたたかな眼差しに満ちたものである。たくさんの句を引用しながら、著者の美質に触れているが、ここでは大木あまりさんならではの箇所を紹介したい。 ひとつ足す窓辺の木椅子水温む 「ひとつ足す」のフレーズは、木椅子が二つになったことを意味し、結婚して幸せな日々を送る作者の充実感が読み取れる。が、それだけではない。深読みかもしれないが、実生活の出発点となった木椅子。永遠にゴールの見えない俳句という木椅子。この二つを両立させようとする作者の覚悟が伝わってくる寓意的な句である。家庭と俳句を両立させるのは大変かもしれないが、永遠という、遥かなる言葉に支えられ俳句を続けてきた由季さんなら出来る。現実と創造の世界を往き来して理想の俳句を目指してほしい。 表現者として生きることのしんどさをよくわかっている大木あまりさんだ。自身と同じ道をあゆもうとしている日下野由季さんに心からのエールを送っている。 あらたなる風てのひら空蟬に 径ゆづるとき秋草に濡れにけり 観音のうしろにまはる冬の蠅 またひとつ星の見えくる湯ざめかな 寒禽の思ひ切るときかがやけり ほんたうのこと見えてくる蝌蚪の水 曲屋の繭より暗く灯して 夏雲や十円で買ふ「悪の華」 これ以上愛せぬ水を打つてをり 哀しみのかたちに猫を抱く夜長 夏の蝶何を振り切る翅ならん 改札の残る暑さに別れけり 波音に波あらはるる野水仙 まだ見つめられたくて鴨残りけり この句、栞で大木あまりさんは、「北地へ帰らない理由が、「まだ見つめられたくて」とは、何といじらしい鴨だろう。哀れなイメージで詠まれがちだった「残り鴨」を払拭するように、由季さんは明るくてフレンドリーな鴨を詠む。親愛の情をこめて、懸命に生きる鴨にエールを送っているのだ。」と書き、「私の愛誦句となった」と記している。わたしはこの句に、ふっと日下野由季さん自身を思った。「まだ見つめられたくて」と鴨の心情として表現しているが、本当は自身のことなのではないか。「まだ見つめられたくて」という女性のせつせつとした心情を鴨に託して詠んでいるように思えるのだ。だから「寒禽の思ひ切るときかがやけり」も又、彼女自身の「寒禽」へ託する心情である。その心情が瑞々しく、その若さが眩しい。日下野由季さん自身も新しく輝くためになにかを思い切ったのかもしれない。 冬薔薇のもつとも深き色を剪る 心惹かれる一句である。五月の薔薇でなく、秋薔薇でもなく、冬薔薇にこころをとめた作者がいる。枯れ色が支配する世界に毅然として咲いている薔薇だ。その薔薇の「もつとも深き色」を剪るのだという。冬薔薇のなかに深き色を見いだせるかどうか、それはひとえにその人間の心ばえにかかっている。冬薔薇の命に触れようとしている作者のこころ静けさが見えてくる一句である。 露けさの一つ枕に銀貨置く 野水仙一輪に風あたらしく お降りの箱根の山を越えにけり 羽打つて遅日の水のひびきかな 遠雷や日記に書かぬ今日のこと 鬼胡桃絵本の森へころがりぬ 拭きあげし鏡に寒の明けにけり 百千鳥一生のいまどのあたり 一秒で来たる返信秋澄めり 本句集の担当はyamaokaであるが、由季さんとはラインでやりとりをすることが多かった。子育て真っ最中の由季さんである。パソコンメールよりもラインは便利である。赤ちゃんを抱っこしながらだって、携帯を横においておけばラインでイッパツで返事ができる。わたしもすぐに返事をもらえて助かった。まさにラインは「一秒で来たる返信」である。そういう時代になったのである。この句「秋澄めり」が、俗臭を消している。一秒で来た返信、きっとよき訪れだったのだろう、と思った。 十七音しかない俳句という詩型の潔さが、私は好きです。何を詠んでも、語り過ぎなくていい。そこに救われる思いがします。季節の言葉を通して「今」と向き合えるところも、俳句を愛する由縁です。 「あとがき」の言葉である。 本句集の装幀は和兎さん。 「馥郁」をどう表現すればよいか。。 若草色の一冊となった。 タイトルは金箔も考えたが、パール箔で。 表紙。 扉。 馥郁と春の鴎となりにけり 実りある三十代の句集『馥郁』のどのページをめくっても、透明な句に出会うことができる。作者の俳句への情熱が伝わってくる。 大木あまりさんは、栞の文章をこう結んでいる。 そして、 身のうちに心音ふたつ冬木の芽 新しい命の誕生を予感させるかたちで『馥郁』は終わっている。 日下野由季さんは、目下俳句に、子育てに、奮戦中である。 「永遠の木椅子」に向かってどうぞ頑張ってくださいませ。
by fragie777
| 2018-10-19 19:57
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