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10月18日(木) 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり) 旧暦9月10日
秋の蝶。 「ふらんす堂通信」61号の編集真っ只中である。 来週早々には校了。 今回のコラムは、「100万円をもらったら」というもの。 それであれこれ考えたのね。 「ラスベガスのカジノに行こうか、100万円をにぎりしめて」と云ったら、 「ダメダメ、往復の飛行機代で終わっちゃいますよ」 「そりゃ、そうね。」 「韓国のカジノで遊ぶのがちょうどっていうとこじゃありません?」 「そっか、韓国ね、一度遊んだことがあるな。。。」 でも、もう少しおおきく飛躍したい。 100万円をただでもらったのだからね。 「皇帝ペンギンに逢いに南極へ行くっていうのはどう?」 「それも無理、南極への旅行はもっともっとかかりますよ」 ということで、100万円の使い道はなかなか難しい。 いっぺんに使わなくってもいいじゃないかって、 それで一日5万円ずつ20日間かけて使うっていうのも考えた。 すると、一日目の5万円を何に使おうかって、悩んでしまうのである。 100万円をどう使うか、案外むずかしい。 で、 何につかうか。 一番現実的なやつを「通信」に書きました。 「ふらんす堂通信158号」を是非に読んでくださいませ。 このブログを読んでくださっている皆さまだったら、どう使います。 (そっと教えてくださいな) 新刊紹介をします。 四六判函入りハードカバー装 234頁 俳人・角川春樹の最新句集である。 本句集の刊行への思いを角川春樹氏は、「あとがき」でこのように書いている。 平成三十年は、角川源義(げんよし)生誕百年、俳誌「河」の創刊から六十年を迎える節目の年である。この記念すべき機会に角川源義を偲ぶ句集を上梓しようという考えが、二年前から湧き上がっていた。だが句集名がどうも思いつかず、迷い続けていた。私が付ける句集名は、全てテーマに寄り添って来た。今回のテーマは父・源義への追悼である。 平成二十八年十月二十五日に行われた「河」の秋季吟行句会で、小林政秋の次の句を特選に採った。 泰山木は寂しい木なり源義(げんぎ)の日 小林政秋 ジュリアン・ジェインズの名著『神々の沈黙』によれば、神々の声は右脳に囁きかけ、人間の左脳が神々の声を言語化する、と言う。 「河」の句会の席上で、その時、まさに右脳で神の囁きを聴いたのである。 源義の忌日は、「源義(げんよし)忌」「源義(げんぎ)の忌」或いは「秋燕(しゅうえん)忌」と詠(よ)まれて来たが、「源義の日」を用いた作品は、小林政秋の右の句まで存在しなかった。 私の第二句集『信長の首』は、源義の処女句集『ロダンの首』に因(ちな)んで書名とした。読売文学賞を受賞した源義の遺句集『西行の日』を念頭に置けば、私の最新句集名を『源義の日』と名付けることが一番相応(ふさ)わしい。 父・源義の生誕百年、「河」創刊六十年の年に父を偲ぶ句集を「源義の日」として刊行されたのである。 また本句集の刊行について、春樹氏にはもう一つの思いがあった。「あとがき」を読んでみよう。 今回の句集のもう一つの旋律は、平成二十九年五月十二日に逝去した盟友・武富義夫への挽歌である。 神保町の喫茶「ラドリオ」で初めて人を介して出会ってから、五十年の長きに亘(わた)って彼との交友が嵩をなして来た。 私は二年五か月と三日間、八王子医療刑務所と静岡刑務所に収監されていた。武富義夫は、その静岡刑務所にも友人の河村季里を伴って面会に来てくれた。その間、私を支えたのが読書と俳句の創作である。そして、私が獄中で自得したのは、人生で一番美しいもの、それは友情ということであった。二十四年前に千葉拘置所を仮出所した後に、誰よりも前に会いに行ったのが辺見じゅんと武富義夫である。 武富義夫は海外著作権のエージェントである日本ユニ・エージェンシーの会長であり、翻訳家でもあったが、何よりも教養が人生と響き合う稀有(けう)の人物だった。 本句集は、源義へ父恋いと、友・竹富義夫への思いを奏でたものであり、また氏の心に去来する今は亡き大切な人々への挽歌でもある。 本句集はPさんの担当である。 この句集をつくるためにPさんは何度か春樹氏のもとを訪れた。 Pさんがあげた句は、 たましひのこゑをかたちに健吉忌 蝉声や誰も座らぬ解夏の椅子 てつちりや父につながる無頼の血 此の道や花西行の父があり ゲラ刷りに雨の匂ひや巴里祭 埋み火や離れゆくものを人と呼ぶ 父の日やひとりひとりに夕餉の灯 Pさんは言う。 「春樹先生の目の前にはいつも椅子がひとつあり、その椅子に友人が座り、話をし、話をきき、語らうことが最上の時間である。 しかし、みな鬼籍に入られ、その椅子に魂を呼んで、今度は心と俳句で対話をしているのだと思う。 だから『椅子』という単語がよく出てくるのだと思う。」 なるほど。。そうなのか、 本句集はその死者との対話の句集であるかもしれない。 淋しさがつらぬいている。 ほかに、 青梅雨や静かに昏るる父の書架 海鳴りの遠き木椅子や小鳥来る (辺見じゅん死して五年) 灯の入りていのちふたつの雨月かな (源義死して四十二年、照子死して十二年) 蕗(ふき)味噌(みそ)やあどけなかりし母の酔ひ ゴールデンウィーク渡辺印刷雨の中 (かつて角川書店の本の制作「出版部」に所属) 遠雷やあるべき場所が此処にある (編集者として五十一年、「河」を継承して三十九年) 生きるとは生き残ること水の秋 埋み火や離(か)れゆくものを人と呼ぶ (平成二十九年五月十二日、武富義夫死す) 冬花火俺は今でも此処にゐる 遅き日の文づくえに置く君の骨 (遺族より武富義夫の骨を分けて貰う) 初春の父の一樹に父のこゑ 自分史をめくれば昭和の蛭泳ぐ 蟻地獄どんどんひとりになつてゆく 春樹氏の心底からの叫びであると思った。父の句「蟻地獄雲のゆききの絶間なき 源義」を前書きにしておかれた一句である。父の句には、どこか心のゆとりを感じさせるが、この一句は容赦ない孤独感である。カッコつけてなどいられない淋しさ。孤独や寂寥を詠んだ句が圧倒的に多い本句集であるがどこか甘美さをまとっているものが多いようにわたしには思えるのだが、これはもう切羽つまった気持ちを吐き出しものだ。好きな一句である。 父の日や本のエンドロールに父がゐた 「『本のエンドロール』とは、奥付のこと」という前書きがある。「エンドロール」とは、広辞苑によると「映画やテレビドラマなどの終わりに、出演者やスタッフを紹介する字幕」とある、つまり、本における奥付のようなもの、と角川春樹氏は意味づけた。映画もたくさん作られた氏であるが、氏はご自身は出版人であり編集者であるという矜持をずっと持ってきた方である。それを本句集においてわたしはあらためて知った。「遠雷やあるべき場所が此処にある」の此処とはまさに編集者として働く場所なのである。それは父・源義から受け継いできたものであり、つねに仕事人としての父を意識してきたことなのだと思う。ふっと手にとった一冊、その奥付に父の名前を見つけた。そこで父に出会い父のことを思う。息子としての素直な思いを詠んだ一句である。 昭和六十二年「河」十月号に、飯田龍太氏は「生死のことなど」という題で、末尾に次の一文を源義に寄せている。 学究のことを別にするなら、実業のことは安んじて後進にゆだね切った氏の晩年は、文字通り俳句一筋。しかもその極をきわめた。とすると、年齢の多寡(たか)にかかわりなく、源義氏は、存分におのれの人生を生き抜い たひとと思いたい。 私も源義は、存分に人生を生き抜いたひとだと思う。 ふたたび「あとがき」より。 本句集は函入りの句集である。 装幀は、丸亀敏邦氏。 角川春樹氏の装幀をすでに手掛けている装幀家である。 函。 面白い発想だ。 表紙。 おかれた文字と桜の花びらはすべて泊押しである。 この字は丸亀氏の手によるもの。 見返し。 帽子がさかさに置かれている。 扉。 花布とスピンは青。 きれいな青である。 本文はすべて一句立て。 遠雷やあるべき場所が此処にある 角川春樹 私が生きていく場所は、いま私が居る此処しかないという確信だった。 小説も音楽も映画も詩歌も、生活必需品などではない。だが生活必需品ではないところから文化が生まれてくる。そして、いつの時代も不良が文化の担(にな)い手だった。 詩歌とは大きな遊び冬オリオン 角川春樹 角川源義生誕百年、そして「河」創立六十周年を迎えられ、 角川春樹氏の更なるご健吟をお祈り申しあげたい。
by fragie777
| 2018-10-18 19:57
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