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10月12日(金) 旧暦9月12日
秋の水。 根を詰めて仕事をした夕方のふらんす堂は、猫談義に花が咲いている。 猫を飼っているスタッフはiPhoneで猫の動画を見せている。 「ああ、癒やされる!」って叫んでいる。 「帰りがけに猫たちに会うんですけど、相手にしてもらえないんですよ」って言っているスタッフもいる。 わたしは家にいる二匹の愛猫のことを思いだして、(ふっ、可愛いな)って思っている。 さあ、早くブログを書き上げて、猫たちに会いに帰ろう。 新刊紹介をしたい。 四六判変型ソフトカバー装。 こちらは猫ならず「犬が見ている」というタイトルの句集である。 タイトルもユニークであり、収録された作品も定型にとらわれずに自由に詠まれているものも多い。 著者は岡部隆志(おかべ・たかし)さん。1949年生まれ、現在大学で教鞭をとっておられる。専門は略歴によると、日本古代文学、近現代文学、民俗学。そして「1997年から中国雲南省の少数民族文化調査に赴く。他に現代短歌評論も手がける。とあり、その著書は多い。そういう方がなにゆえ俳句を作られるようになったか、そして句集を刊行するはこびとなったか、そのことはやや長めの「あとがき」に書かれている。 「あとがき」を紹介しながら、作品を紹介していくのが一番良いかも知れない。 私は俳人でもないし、句会などで句作を続けてきたわけでもない。ただ十数年前からブログを書いていて、そのブログに思いつくままに俳句のようなものを作って載せていた。いつのまにかそれがかなりの数になった。そこで句集なるものにまとめようと思い立ったのである。 いわゆる正統な俳句からすれば私の俳句など俳句になっていないことは承知のうえだが、それでもまとめようと思ったのは、私の体内(前立腺)に癌が宿っていることを知ったことが大きい。癌と言ってもすぐにどうこうなるというせっぱつまったものではないのだが、さすがに死が身近にあることを思い知らされた。 そこで、自分に残された時間に何ができるだろうかと考えたとき、自分が取り組んできたことは文学研究や短歌評論などの言語表現にかかわることであり、当然ながらそれを全うすることだということになった。そして、手すさびの俳句も私の表現活動に入れてもいいだろうと、自分に言い聞かせ、本にしようときめたのである。 俳句と言っても、「季語+つぶやき」といった体裁のものばかりで、高尚さに欠ける句ばかりだが、こういうのもありだろう、と俳句の許容力に甘えることにした。 本著は逆編年体に編まれている。つまり始めから終わりへと時間を遡っていくことになる。 薄氷を踏む日々長閑なる日々 一声に悔恨込めし寒烏 雑炊を黙して喰う夜幸(さち)あれ 西部邁逝く孤独に逝く冬の川 頰被りて行く朝犬が見ている 俳句という表現形態は、沈んだ気分を、うまく和らげながら詩的なことばにすくいあげてくれる。それは、俳句が人の織りなす事柄をアニミズム的自然の表象のなかへと包み込んでくれるからだろう。とくに季語の働きとしてそれを実感した。それにしても日本の自然は優しい。この優しさがなければ、私は俳句を作り続けることはできなかった。俳句はこの自然の優しさ(日本人がそのように認識してきたということだが)に支えられた詩形だとつくづく思う。 本句集の担当は文己さん。 文己さんが好きな句を紹介したい。 歳重ね負けてなるかと餅を搗く この娘らの勢い集め日脚伸ぶ 冬めきて樹の覚悟など思いけり 最強の教師になりたし厚着する あれは辛夷山ではいつも先に咲く 蝸牛宇宙の際で思案せり 朧夜に微熱の身体そっと置く 泣き虫の歌人を囲み年が暮れ ジョバンニもよだかも見しや冬宇宙 秋の陽に縄文蛙も薄目開け この句も文己さんが選んだ一句である。わたしも好きである。実は「縄文蛙」という蛙がいるのかと思って検索をした。が、どうやら縄文土器に描かれた蛙らしい。さらに調べてみると「蛙」や「蛇」は縄文人に愛されていたらしくずいぶんと描かれている。蛙文(あもん)土器というらしい。ややユーモラスで縄文土器のもっている力強い伸びやかさで描かれている。秋の強い陽ざしに縄文蛙も薄目を開けている、というのがなんともいい。読む側の人間にもおおらかな空気が伝わってくる。思索的、述懐的な作品が比較的多いなかで、物だけを語っているところが力強くひびいてくる。 蝸牛宇宙の際で思案せり 著者も自選にとっておられ、文己さんも好きな一句である。 「蝸牛」はたしかに閉じこもる殻を持っているがゆえに思索的である。おおむねのところ、葉の裏側とかで多くをみつけることがあるが、葉っぱの縁のおちそうなところにしがみついている蝸牛もいる。そうかと思うとすこし前だったか、窓枠にはりついて大きな家を覗きこんでいる蝸牛をみた。なかなか隅におけないヤツである。そんな蝸牛であるから、「宇宙の際」にまで行って思案するっていうこともあながち不思議ではない。いや、蝸牛と宇宙の際はよく似合う。だが、そこでいったい蝸牛は何を思案しているのだろうか。自身の殻からいかに脱出するかをフツフツと考えていたりして。なかなかはかり知れないものがある。 ほかに、 婚礼の祝辞をよそに春眺む 落葉ども踏まれぬものから消えていく 天高し背伸びする犬笑う猫 ゲームの如きこの世蚯蚓は生きる たくさんの言の葉貰い卒業す 全身全霊もの喰う犬にも春 水菜嚙む音も生命(いのち)になりにける 冬服に着替えし山の近く見え 山頭火通り過ぎ冬野に消ゆる 犬だけが空を見ている秋日和 本句集の装丁は和兎さん。 岡部隆志さんは、装丁にこだわられた。 判型も四六判を細目にしたタイトなもの。 表紙。 私のややハイテンションの気分がこの句集には色濃くある。快活とは言えないその気分のフィルターの向こうに、アニミズム的自然に隠れたひとりの人間の真摯な言の葉を読み取っていただけたら幸いである。 「あとがき」のことばである。 ぐだぐだと生きておればの暑さかな この一句好きである。思うに著者の岡部隆志さんは、どちらかというときっと「ぐだぐだと生きる方」ではなくて、「きっちりと整然と思考しながら生きる方」のように思える。だから「ぐだぐだと生きて」とあえて認識することがあり、そんな風に生きていると暑さだっていっそう暑く感じるというわけである。ところでこの「ぐだぐだ」って何だ。広辞苑をひいてみた。①同じようなことをしつこく繰り返していうさま。②無気力でやる気のないさま。また、絞まりがなく、物事がはかばかしく進まないさま。どちらも芳しい意味合いではない。でもときにはぐだぐだとしようよ。生産性ばかり追いかけないで、こうぐだぐだとしてさ、あっついわねえ。なんて言って、だらしなく怠けてさ。365日のうち、わたしは多分6日くらいはこういう日があると思う。ということは、わたしって結構頑張りすぎてない。もうすこしぐだぐだを増やそう。 っていったいこれは俳句の鑑賞にもなってやしないけど。。。 今日は週末。 土曜日には歯医者さん、日曜日の午後に美容院へ予約をいれた。 すぐに月曜になってしまうような気がする。
by fragie777
| 2018-10-12 19:26
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