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10月3日(水) 水始涸(みづはじめてかる) 旧暦8月24日
今日行ったレストランに飾られていた白菊。 「孔雀草っていうんだそうです」と女主人。 すこし前に見た映画でつかわれていたためか、ショパンのピアノ曲を聴いてみたいと思った。 今朝のことである。 わたしはCDラックからショパンのそれを取りだそうと思ってしばらく見ていたのだが、 (あら、まっ、ない。1枚もないじゃん!) ということに気づいたのだった。 自分でも驚いたのであるが、わたしはショパンのピアノ曲のCDを1枚も持っていないことにはじめて気づいたのだった。 埃をかぶったCDラックをみていくとあるのはモーツアルトとバッハの作品集ばかり、それにすこしずついろんな音楽家の作品があるのだが、俳人にしてピアニストの蓜島啓介さんからシューマンとリストのピアノ曲をいただいたりもしている、しかし、ショパンがないとは、自分でもびっくりしたのだ。クラッシックに関しても全然造詣が深くないので、ミーハー的に聴く(って?ってどういことかよくわからんけど)くらいであるが、2018年の10月3日の朝、わたしはショパンのピアノ曲を聴きたいと思ったのだが、わたしは聴けなかった。そしてすでに聴きたいと思った心は遠くへ行ってしまっている。まっ、いいか。 そういうところがあるのよね、固執しないというか、すぐにどうでもいいわって思ってしまうというか。。。 新刊紹介をしたい。 ![]() シリーズ「大阪の俳句ー明治篇8」の野田別天楼(のだ・べってんろう)である。 句集名は「雁来紅(はげいとう)」。 帯の句とその言葉を紹介したい。 露光る夕あるきすこし酔うてゐる 冬雲のぐるりがぽかと明るくて 野田別天楼(1869~1944年)は「倦鳥」同人として活躍しながら、川西和露などと古俳書の研究に取り組み、『芭蕉珍種百種』などを世に残した。 本書の編集は小寺昌平氏により、あとがきは塩川雄三氏が寄せている。 年譜によると別天楼は、明治2年に生まれ、昭和19年に75歳で没している。16歳で教職に就き、教員仲間と作句したのが俳句の始まりであったようだ。その後子規の指導をうけ「ホトトギス」に投句をする。松瀬青々と知り合い青々の「倦鳥」の同人となる。興味ふかいのは、大正6年(1917)に奈良県畝傍中学校に奉職し、そこで阿波野青畝の担任となったことだ。大正9年(1920)に第1句集『雁来紅』を刊行。 それが本書である。 小寺氏の解説に別天楼が、「倦鳥」(大正9年第5巻第5号)に寄せた句集『雁来紅』発行の経緯を紹介しており、それがすこぶる面白い。長くなるが抜粋して紹介したい。 私が俳句に指を染めてから殆んど三十年になる。これを三期に分けてみる。第一期は月並俳句に没頭してゐた六年間、第二期は日本派俳句を信仰してゐた十九年間、尤もこの中十四年間は休止してゐた。第三期は句作に復活した最近の五年間である。この長い歳月の間に私の作つた俳句は、少なくとも一万には達してゐるだらう。雑誌や新聞に発表した丈でも二三千あるだらう。 その間私は自分の句集を刊行したいと考を起したことは無かつた。一家の句集は一代の宗師たる人が没後に、その門下などによつて編まるべきで、作者自ら句集を刊行することは、烏滸の沙汰であるといふ考さへ持つてゐた。随つて私は自己の俳句を書き留めておくことすらしなかつた。自己の俳句に対する執着心は毫も持つてゐなかつた。 然るに私は昨年の十月になつて、ふと自分の句集を編んで見たいと思ふ心が起つた。それによつて私の過去を反省して、将来の句作に資したいといふやうな考も心のどこかに潜んでゐたのであらうが、それよりも私は私の暗い、弱い、悲惨な生活の記念として、私の生活の反映と見るべき最近五年間の俳句を集めて見たいと思つたのである。 私は大正三年から現在へかけて悲惨な生活を続けてゐる。富田林から御影へ、御影から畝傍へ、畝傍からまた元の富田林へと、僅か五年間に転々して席暖かならざる生活を続けてゐる。悲しむべきこと、憤るべきこと、恥づべきこと数々を、この小さい弱い心で堪へて来た五年間、常に私の心を慰め、私の心を励まし、私に鞭つて呉れたのは俳句であつた。若し私が俳句に親しむことが出来なかつたら、私は煩悶の余りにどんなことをしてゐたかも知れない。修養の乏しい私は絶望、落胆も、悲観の極に陥つて仕舞つたであらう。私が兎にも角にも小さい努力を続けて来たのは全く俳句の賜であつた。この忘れることの出来ない五年間を記念する為に句集を編むことは、あながち無意味なわざでもあるまいと思ふ。 この後もまだ文章は続くのであるが、ここで句集をつくろうと思いたったその契機を、悲惨な状態にあった5年間の自身の心を励まし鞭打ってくれたのが俳句であったことに気づき、その辛い5年刊を記念する為に句集を編むことしにしたとあり、その心のさまが率直に語られている。 そして、そのあともくどくどと、自分の俳句はつまらないのではないか、とか平凡で嫌味だとか、小主観が現れすぎているとか、句集を辞めようと思ったが、それをする勇気もない。と読んでいると面白い。そして序文や題字を頼もうと思ったが迷惑だろうと考えすべて自分ですることにしたが、こんどは印刷屋さんとのやりとりでなかなか思うように事がはこばない。その辺をツラツラと書き連ね、 こんな貧弱な句集一つ出す為に、半年間もやき〳〵思ふのはいやなことだ。寧ろ刊行を止めて仕舞たいと思つたが断行する勇気がない。意思の弱い私自身を奈何ともすることが出来ないのである。 という文章で終わるのである。 もうヤレヤレである。が、その当時の出版状況なども見えてきて興味ふかい一文である。 そんなこんなで生まれた『雁来紅』である。 「あとがき」で塩川雄三氏は、 大阪の誇るべき俳人野田別天楼句集『雁来紅』は大正九年四月に刊行された第一句集で作者五十一歳のときのものである。 と記し、季節別に好きな句をあげておられる。それを抜粋して紹介したい。 春 思ふこと一人となりて春の雨 よるべなき旅や焼野の火に立ちて 夏 生きてゐることが暑くて尊くて 雲の峰水の都へなだれけり 秋 百舌鳥鳴きて日はおほどかに昇りたり 稲刈りてあらはな土を見てありぬ 冬 我を襲ふやうに冬雲のびてくる こんな暮しがいつまでつづく焚火せり 新年 恵方よりそれて渚をたゞありく 本句集の担当はPさん。 春浅き野に裸木のかげりかな 待つとなく土の朧をふみてゐる 優しくやはらかき眼のかゝやき短夜の 蚊帳をたゝむ夏痩せの眼はうるみたり 雲のはづれの日をふるはして渡り鳥 稲を刈るあすの分れの胸にあり おもふことひたと小春の壁に寄る わたしも好きな句をここでは二句のみ。 寝にもどる紫苑は月をあびてあり 生きてありやと我が影を見る寒き 今日の坪内稔典さんの「船団今日の一句」は、本著からである。 天の川ふらふら河に出てゐたり 野田別天楼 河に天の川が映っていて、その河へふらふらと入ってしまいそうな気配だ。大阪俳句史研究会が出している「大阪の俳人―明治編8」の野田別天楼句集『雁来紅』(ふらんす堂)から引いた。別天楼は明治の大阪の学者俳人とでもいうべき存在だった。 尚、別天楼は、昭和10年(1935)に俳誌「雁来紅(がんらいこう)」を創刊主宰している。翌年、第2句集『野老(ところ)』を「雁来紅社」より刊行している。 そうそう、この『雁来紅』、「悲惨な生活の記念として」編まれたとある割には、それほど、いやほとんど悲惨ではない。まま、そういう句もないわけではないが、やはり自然に癒やされているのではないか。そんな風に思ったのだが、どうだろう。 タイトルになったのは次の一句。 雁来紅生きの悩みに燃ゆるかな 今日はお二人客さまがいらっしゃった。 「鷹」の俳人の折勝家鴨さんと、「鷹」の同人の鳥海壮六さん。 鳥海壮六さんが、この度第1句集を刊行されるにあたり、そのご相談に見えられたのだった。 折勝家鴨さんはご近所(?)のよしみで鳥海さんをエスコートして来てくださった。 いろいろと見本をご覧になられて造本をお気めになった。 鳥海壮六さん。 小田原市にお住まいで、「鷹」小田原支部長さんである。 藤田湘子に俳句を学んでより現在まで俳歴30年以上であるという。 「これまではなかなか句集をつくろうという気持ちにならなくて……やっとそういう気になりました」と。 「こういう町があるんですねえ」とおっしゃりながら仙川の街を眺めておられたのが印象的だった。
by fragie777
| 2018-10-03 19:42
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