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9月25日(火) 十六夜 旧暦8月16日
バスの中より見た山形平野の稲刈り風景。 こんなに広広とした稲田をみることはあまりない。 肌寒い一日となったと思ったが、どういうわけか仕事中は冷房をドライにしている。 さっき切ったところだが、寒くて冷えているのかそれとも蒸し暑いのか、よくわからない天候である。 身体を壊しやすいので気をつけましょう。 今日はまず、新刊紹介をしたい。 四六判クータ―バインディング製本帯有り 176頁 俳人・飯田晴の第3句集である。2010年から2018年までの300句を収録。 飯田晴さんは昭和29年(1964)千葉生まれ、現在は千葉県八千代市在住。ということは生粋の千葉県人か。集中に〈千葉平らことにも落花生つぶら〉とあって、ひょっとするとって思ったのだが、やっぱり。友人に千葉県人がいるが、千葉県がほこる落花生であるらしい。昭和63年(1988)に「雲雀」に入会して俳句をはじめ、平成9年(1997)「魚座」に入会し平成18年(2006)の終刊まで今井杏太郎に師事。平成19年(2007)に鳥居三朗主宰の「雲」創刊に参加。現在は「雲」主宰。本句集は『たんぽぽ生活』に次ぐものである。 噴水にゆめの変り目ありにけり 本句集のタイトルとなった一句である。 このことについて、著者はこう「あとがき」に書く。 今井杏太郎先生、鳥居三朗亡き風景を思うとき、この集のなかの一句に用いた「ゆめの変り目」にふと誘われる心地して、集名としました。出会いながら別れながら生きているあいだは、いつでもゆめの変り目なのかもしれません。 噴水に「ゆめの変わり目」をみるのである。噴水という実体から夢が変容していくその時がみえるように、では「ゆめ」とはなにか、それは現実ではなく現実にかぎりなく近く著者の心をとらえて離さないものか、著者の飯田晴さんは、虚と実の間(あわい)に、いや生と死の間と言った方がいいのか、そこに身をおきながら自身の生を刻んでいくように思える。 本句集の担当はPさん。 穀象に米のつながりあふ匂ひ 火の匂ふ鯛焼に銭使ひけり 蝉の死を一つと数へゐたりけり 冬青空猫はすとんと地に降りぬ 太陽の昼のふくらみ蚯蚓死す 音たてて歩けば人となる寒さ 炎天の白さとなつて歩きけり 秋風の野を脱ぎすてるやう逝けり 落葉掃くだけの頭になつてゐる 花ちつてしまへり猫を改名す 夏燕ひるがへるとき新しく 枯に手を置けばすみずみまで眠し 火の匂ふ鯛焼に銭使ひけり わたしも好きな一句である。「鯛焼に銭使ひけり」と鯛焼きを買うのではなく、「銭を使う」という一種卑俗な叙法であるが、上5の「火の匂う」という措辞によって、鯛焼きは形而上的な匂いをまとう。ゆえに「銭使う」が生きてくるのだ。つまり「火」とは太古からあるもので人間世界を照らしつづけてきた日常の時間を超えたもの、バシュラール言うところの物質の4大元素のひとつとしての「火」などまでは思わなくても著者にとっては「銭を使う」ことが惜しくないその「火」の匂いのする鯛焼きなのである。日常をよみながら、どこか日常の猥雑さから10ミリほど地上に浮いていることを感じさせる飯田晴さんだ。 音たてて歩けば人となる寒さ この句にもこころがとまった句。肉体という物質でありながら物質からはなれた遊離感があって、音を立てて歩くことによって、肉体が肉体であることを自覚していく、その自覚がきわまったところにある「寒さ」なのだ。だから寒さが肉体をいま制覇している。ああ、寒い。 〈炎天の白さとなつて歩きけり〉〈秋風の野を脱ぎすてるやう逝けり〉〈落葉掃くだけの頭になつてゐる〉〈枯に手を置けばすみずみまで眠し〉などなど、飯田晴さんにとっては、肉体はつねに変容可能であり、その肉体は自然の諸相にヴィヴィドに反応する。 蝉の死を一つと数へゐたりけり この句すごく好き。どうしてだろう。何も言っていない、当たり前のような気もするのだけど、蝉の死を悼んでいる作者の気持ちがみえてきて、そしてその気持ちが読み手にしんしんと伝わってきて、わたしの気持ちもすごく悲しくなる。不思議な一句だ。飯田晴さんが魔法をかけたのかな。「蝉の死」は一般的な概念としての蝉の死ではないのである。まさに目の前にいてすこし前までは生きていておおいに鳴いていたかもしれない蝉であり、もはや死んでいるこの眼前の「蝉の死」なのである。その死の重たさがずしりと読み手の心にのしかかってくるのだ。それは「一つと数へゐたりけり」という丁寧な念を押すような叙法によるのだろう。 ほかに、 みづうみの魚食うて夜の長きかな ふいに手の出て藤房をひとなです 睡蓮の水のつづきに坐りをり 守宮ゐて地下室のドアさざめきぬ あたたかや造本に詩の降りつもる 泣いてゐる鼻の奥まで麦の秋 玉虫のあれはたましひ曳く高さ 四方枯るる山を摑んで下りけり 夕影を道にひろげて春の人 けふの足使ひ果たすや赤のまま わたむしのみえてだんだん一人なる ねむりゐる鴨はつながりあふやうに はじまりの母コスモスの中に父 飯田晴さんの作品はどれも一枚のヴェールをまとったような優しい表情をしていて淡彩の色合いがある。 本句集の装丁は和兎さん。 色はできるだけ使わず、用紙の素材感を大切にしたものとなった。 帯を高くまいた。 カバーはあっさりと。 しかし、タイトルにはさりげなく箔押しをした。 カバーをとった表紙。 同じ用紙だが、カバーとは色違い。帯とおなじもの。 見かえしは表紙とおなじもの。 扉も。 すべて同じ用紙で統一し、装丁が饒舌にならないように心掛けた。 この句集のさりげない見せ場である。 背のクータ―を青で印刷。 これは、ご夫君の鳥居三朗氏を亡くされた飯田晴さんの喪心をと、青に。 この本の唯一の色である。 生者死者、水も石も人のほとりに棲む生きものも、思わぬ近さに感じながらの一集となったように思います。 「あとがき」である。 そうか、「思わぬ近さ」なのだ。 そう思ってこの不思議さを纏った句集を読むと、一句一句が心にすとんと入ってくる。 そしてその近さとは、愛おしい近さなんだと思った。 めし食うて少し年とる梅日和 好きだな、この句。。。 「梅日和」が最高だ。 年をとることも愛おしいものに思えてくる。。。 新聞の記事を紹介したいのだが、それは明日に。
by fragie777
| 2018-09-25 20:28
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