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9月18日(火) 玄鳥去(つばめさる) 旧暦8月9日
蓼の花。 地味な花でとおり過ぎてしまいそうになる。 こうして写真にとると、ああ、いいなあって思う。 新聞記事の紹介をしたい。 17日付けの讀賣新聞の「枝折」は、四ッ谷龍著『田中裕明の思い出』が紹介されている。 特異な才能をもった俳人の言語感覚や俳句観などについて、親愛の情を込めてつづる。 おなじく讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、 対中いずみ句集『水瓶』より。 烏瓜の花空中にあらはれし 対中いずみ 烏瓜はそろそろ赤く染まるころ。夏のころ、その花に気づいた人はいるだろうか。見ていても、あの烏瓜の花とは思わないかもしれない。白いレースを広げたような花なのだ。見えない手が綾取りをしているように。句集『水瓶』から。 18日付けの毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、津久井紀代句集『神のいたづら』より。 子規の忌のすこし厚めの麺麭とジャム 津久井紀代 句集「神のいたづら」(ふらんす堂)から。作者は東京都武蔵野市に住む。正岡子規は健啖家だったので、彼にならってパンを厚めに、ジャムを多めにしたのが今日の句。ちなみに子規の好んだ飲料は「牛乳一合ココア入り」。子規忌の前後、わが家の朝の飲料はこれになる。もちろん、やはり子規が好んだあんパンも食べる。明日が子規忌。 そうなのか。明日は子規忌か。 わたしも子規を思ってパンの厚切りを食べようか。 ああ、ダメ、パンは太る。 じゃ、「牛乳一合ココア入り」とするか。 いや、牛乳にココアというのもなかなかカロリーが高そうだなあ、ここ数年料理に用いる牛乳以外は牛乳なるものを飲んでいないような気がする。 じゃ、どうする。 あんパンか、 いや、それも。 おお、そうだ。 柿を食べよう。 すでに近所のスーパーには出回っていたな。 よし、 決めた。 明日の子規忌は、柿を食べる。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装 178頁 著者の中村ひろ子(なかむら・ひろこ)さんは、昭和44年(1969)熊本県生まれ、現在は神奈川県・川崎市在住。平成5年(1993)に「熊本大学学生句会」で俳句をはじめる。平成9年(1997)「未来図」熊本支部入会、平成26年(2014)「未来図」杙の会参加、平成28年(2016)「未来図」新人賞受賞、平成29年(2017)「未来図」同人。「未来図」400号記念コンクール秀逸第一席。本句集は平成9年(1997)から平成30年(2018)までの作品を収録した第1句集である。序文を鍵和田秞子主宰が寄せている。 小さき手でドロップ缶振る火の用心 「カチカチ、火の用心」と通り過ぎるのに合わせて、幼い子どもがドロップ缶を振るその情景が鮮やかで楽しい。近年は吾子俳句も多いけれども、母親の愛情をこういう形で表現するのはまた、格別のよさがある。読者もまた楽しくなってくる。中村さんの吾子俳句の一つの形として、優れた作品ではないか。 ふくふくと太る実梅と次男坊 崩落の道を繫いで野焼かな 黄の菫こぼれ咲くなり阿蘇原野 ますらをとなりたし猪の肉を食ふ 風組は一列になり芋畠 冬ざれの実験室の骨の群 むき出しの地球の素肌潮干潟 寂光の揺れし先へと花見舟 中村さんの句は力強く、若々しい感性で自由な雰囲気を持っている。今後も大胆に一筋の道を進んで欲しい。将来への大きな期待を抱かせる作者である。 本句集の担当は、文己さん。 乳飲み子の喃語響きて夏の汽車 大風と大縄飛ぶ子賢治の忌 羽子板の少女横向く歳の市 そろそろと冬日を探る象の鼻 大寒やお国言葉とすれ違ふ 風の名の変はる節目の簾かな 改良の金魚ぬらりと生きてをり 黄金虫千切れし羽根の光り合ふ 出鱈目な歌高らかにプールの子 うららかや船客と手を振り合ひて 金魚愛づ逃げ道あらば遮りて 弁天の水馬をのけ銭洗ふ 通り雨まつすぐに受け稲の花 秋天やさて新しき靴を買ふ 破芭蕉旅は橋より始まりぬ 春泥を蹴散らし西へ西へ行く 文己さんが好きな一句で、わたしもおもしろいと思った句である。これは単に遊びや旅行で西の方向を目指しているのではなくて、もう少し大掛かりな、たとえばご主人の転勤(転勤がとても多かったと「あとがき」で書かれている)のために家族そろっての大移動をしているその渦中のことを詠んだのではないだろうか。春の季節である。「春泥を蹴散らし」という表現が、どこか挑戦的な覚悟を感じさせ、しかもユーモラスでもある。単なる地理上の狭い場所の移動であるのではない。生活を背負っての生活圏の移動である。「春泥を蹴散ら」しながら日本列島を西に向かって果敢に横断しているそんな感じか。頼もしい一家だ。 金魚愛づ逃げ道あらば遮りて こちらは文己さんが選んで、わたしがああこういう句もあったんだと面白がった一句。かわいがりながらどこにも行かせない、そんな愛し方か。文己さん曰く、「わたしもそういう気持ちわかります」と。おお、そうなんだ。ちょっとむかし、「お妾さんを囲う」っていう言い方があって、いまは「愛人を持つ」って言うのかな。「お妾さんを囲う」って要するに、中村ひろ子さんの「金魚の愛し方」に通ずるものがあって、自分のためだけの存在であって欲しいから、どこにも行かせない、ようするに自由をあたえない、っていう、今の時代だったらとてもそういう女性はいないと思うけど、中村さんはそういうやり方(?)を金魚にしている。そしてそれをよく自覚しているのだ。で、こうして一句にしちゃっている。なかなか面白い一句だ。 だが、そもそも思うに、これは愛される側と愛する側が圧倒的に力の差がある場合のことだ。相手にはイニシアチブがないのである。人間の場合は男性と女性が入れ替わることだってあり得る。女の方に圧倒的な力がある場合だってある。そういう力関係における愛し方というのは、ある残虐性や冷酷さをともなってしかもそこに秘かな喜びを見いだす、という人間の暗黒部分が剥き出しにされるということもある。おお、ちょっとゾクゾクしてきた。この一句、そんなことまで思わせて面白い。 私は阿蘇山の伏流水の流れる菊池という里で育ちました。祖父は鳥撃ちを嗜み、父は教職の傍ら蛍や兜虫を養殖する楽しい三世代同居の家でした。土地神を祀る農家が我が家のルーツでしたので村の行事で家は一年中賑やかでした。 俳句との出会いは熊本大学の学生句会です。「未来図」熊本支部の方々と合同でよく吟行に出かけました。熊本支部にも入れて頂き幸せなスタートを切ったのも束の間、その後ずいぶん長い間俳句を諦めなければならなくなりました。 (略) 今回の句集は東京で句会に参加し「未来図」への投句を再開した平成二六年以降の句を中心に選びました。第一章では平成九年から平成二五年に「未来図」へ投句した句も少し入れました。。句集名の「ドロップ缶」は熊本への里帰り中に出来た句 小さき手でドロップ缶振る火の用心 から採りました。菊池の地では今も大晦日の夜、寒柝の音が鳴り響きます。四苦八苦する子育てを優しく支えてくれた両親、元気に育ってくれた娘達、何より子育ての戦友である主人に感謝しております。 長い「あとがき」より抜粋して紹介した。 投句を中断しているときのことを、鍵和田秞子主宰も序文でこのように書かれている。 「私が特に感心しているのは、投句を中断していた時期も俳句を決して手放さなかった、中村さんの真摯な思いである。」 そうしてこの度の第1句集の刊行となったのである。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 グリーンが好き、という中村ひろ子さんのご希望をとりいれながらのブックデザインとなった。 見返しと表紙はおなじグリーンの紙を用いて。 扉。 透明な帯はご本人の希望。 娘さんの学校などへも寄贈されたとのこと。 装丁のカラフルな感じがとても気に入っていらっしゃいました。 と文己さん。 友人知人娘の学校関係者からは表紙の美しさを褒められています。子供達が表紙に興味を持ち句集を欲しがり次々とインスタにあげてくれたりと反響の大きさにびっくりしています。特に美大を目指す美術部顧問始め生徒達には大人気です。くれぐれもデザイナーの方によろしくお伝えください。 本当に長い間お付きありがとうございました。俳人としての第一歩を踏み出す事が出来ました。 とは、中村ひろ子さんからのメールである。 ありがちな女の名なり夏負けす 思わず笑ってしまった。ご自身のことを詠んでおられるのだと思うが、中村ひろ子さんは、なかなか自己対象化に秀でた方だ。さきほどの「金魚の愛し方」にしても自己分析がするどい。ありがちな女の名、というのは、ご自身のことだが「われの名」とか「わが名前」とか言わない。自身を距離をとって見つめている。この「ありがちな女の名」というのは、言いかえれば平凡な女なのよっていう自己意識でもある。夏負けの根拠にはなりえないところを、いささかのユーモアをこめて、トホホな自分の状態を詠んでおられる。こういう人好きだな。 以下は余談。 さきほどの「金魚の愛し方」から敷衍して「愛」とは何か、なんていろいろと想像することは楽しいし、面白い。 断っておきますが、想像のみです。 小説や映画などにみる、愛のいろいろ、を見るのは興味がつきない。 最近ぐっときたのは、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」だ。 ここにはあまりにも悲しく、息をすることが苦しくなるような「愛の物語」がある。
by fragie777
| 2018-09-18 20:05
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