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9月10日(月) 旧八朔 旧暦8月1日
青柿。 すでに今ごろは色づいていると思う。 愛猫ヤマトの薬をもらうために、出社まえにご近所の動物病院へ行く。 ここは、近くの人たちが散歩がてらに立ち寄って診てもらうという構えのない動物病院で、わたしは気に入っている。 なんでも検査、検査という病院でないのもいい。飼い主の実情にあわせて診療してくれる。 今日は月曜日とあってか、混んでいた。 それも犬ばかりだ。 みな一見元気そうに思えるのだが、それぞれ病気をかかえているらしい。 犬連れの人同士の会話である。 「いくつ、元気そうね」とパグをつれた老婦人が訪ねる。 「元気そうに見えるんですけど、13才、もうおじいちゃんなんです」と応えたご夫人はプードルを連れている。 (そうか、犬は13歳でもうおじいちゃんなのか。) 「あら、そう? ああ、でもよく見ると、そうかしらねえ。うちのこ、もう15歳よ。アトピーがひどくてねえ。」 床にへばりついているそのパグは「ゼイ、ゼイ」と息をしてちょっと苦しそうである。 身体中に無数の点のようなものがある。 「犬にもアトピーってあるのですか?」って無知なyamaokaは、聞く。 「あるんですよ。」 「そのぶつぶつがそうなのですか」 「いえ、これは老斑かしら、アトピーはお腹がひどくって」 そうなのか。 その犬は雌犬らしくおしゃれなドレスのようなものを着ている。 見わたすと犬たちはどれも老犬らしい。 みな定期的な診察をうけながら、頑張っているらしい。 長生きをすることは犬もなかなかシンドイ様子だ。 いまは、犬も人間もなかなか死ねない時代なのだ。 そういうわが家のヤマトもすでに17歳である。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装 216頁 著者の滝口滋子(たきぐち・しげこ)さんは、昭和22年(1947)神奈川県・川崎市生まれ。平成6年(1994)「百鳥」(大串章主宰)に入会し、平成14年(2002)「百鳥」同人。平成16年(2004)に「百鳥」を退会し、平成17年(2005)「いには」(村上喜代子主宰)の創刊同人となり現在にいたる。平成25年「いには」同人賞を受賞。平成28年(2019)千葉県俳句作家協会賞受賞。俳人協会会員。本句集は平成6年(1994)から平成30年(2018)までの356句を収録した第1句集である。序文を村上喜代子主宰が寄せている。序文によると滝口滋子さんの家は俳句一家である。 滋子さんは俳句一家の家庭の育ちといってよい。お父さんは「濱」の同人だった後藤湖月氏、弟の雅夫さんは「百鳥」の同人として活躍中、上の弟さんは最近「いには」に入会、めきめきと力をつけてきている。俳句のある家庭に育つと、実際に句作をしていなくても俳句が身についているように思う。 集中、父母や家庭を詠んだ句は多い。 病む父へ通ふ車窓のさくらかな 蟇父を永らへさせ給へ 逝きて知る父の信仰栗の花 長女であった滋子さんは看病のために足繁く実家に通っている。「父を永らへさせ給へ」は真実の心の叫びとして胸に響く。神や仏ではなく「蟇」としたところに、共に俳句を愛した父と娘の俳諧精神が垣間見える。 秋海棠母の白髪うつくしき 鰯雲髪を切つたんだねと母 月今宵九十七の母端座 名月の光を浴びながら端座している母。夫を見送り三人の子供、更に孫や曾孫を見守りながら、なお矍鑠と背筋を正して過ごされているお姿に、刀自の佇まいが窺える。 この句集名『ピアノの蓋』は、 夏怒濤ピアノの蓋のあいてをり から名付けられている。滋子さんは小学校に入った頃からヴァイオリンを習い、大学卒業後小学校教師として奉職しながら声楽等も学び、常に音楽とのかかわりが深かったようだ。そのためか集中どの句にもリズム感があり、ひらがなを多用する等、表現はやわらかくやさしい。特にオノマトペには手垢の付かない独特の感性が感じられる。 鰯雲髪を切つたんだねと母 この句を読んだとき、わたしは自分の母親を思い出し懐かしさがこみあげた。滝口さんのお母さまはご健在であるが、わたしの母は70代で亡くなってすでにいない。これはわたしの母の口調でもある。この句、娘にそそぐ眼差しがかぎりなく優しい。なんだか切なくなってしまう。わたしの母はすでにこの世の人でなく、わたしが髪を切ったってこんな風な言葉は聞こえるはずもなく、ああ、でも言ってもらいたいよ、今だって。この一句には娘の存在を全面的にうべなう母がいる。あくまでわたしの場合であるが、顔が不器量だって、鈍くさっくても、なっちゃなくてもそのままそれを受け入れてくれる母がいるのだ。そして「鰯雲」である。その母の思いは、卑近なところからではけっしてなく遙かなところからやってくるのだ。鰯雲の先には母の顔があるではないか。ああ、お母さん。。。きっとお母さまが思い出の人となっても、著者の滝口さんにはこの「髪を切つたんだね」という母の声のぬくもりがありつづけることだろう。 草笛の父の音にはならざりし 父を詠んだ句はたくさんあるが、わたしはこの句がとくに好きである。草笛を吹くのが上手なお父さまだったのかなあ。草笛なんて誰が吹いてもおんなじ音じゃないのって、思ってしまうのだが、滝口滋子さんにとっては「父の音」はとびきりのものだった。それはお父さまが草笛吹きの名手っていうことではなくて(そうだったかもしれないけど)、その草笛を吹いて一緒にあそんでくれたお父さまが吹いてみせた草笛だからそれはもう天下一品の音に聞こえたのだ。父亡き今草笛を吹いてはみたが、どうしてあのときの父の音のように吹けないのか、それはそう、父の音はすでに失われたものであるから取り戻すことはできないのである。父とのいろいろの思い出の籠められた至福の時間の草笛の音。それは失った今、もうどんなに頑張っても「父の音」にはならないのだ。 滝口さんの父母の句は、ノスタルジーでむせかえるような父恋、母恋の句である。 二十五年に渡る句を一冊にまとめるにあたり、作句場所やその時の自分の考えなどが甦り、この句集に自分史が詰まっていると思いました。加えて、辛く悲しく苦しい時に、俳句が支えになってもいました。それぞれの句が幼くて、奥深いものでは無いことに忸怩たるものがありますが、この句集を一区切りにし、新しい自分を発見できるような句を作れるように、自分を磨いていこうと思っています。(略) 最後に、俳句の先達であった今は亡き父と、六月に白寿となる母にこの『ピアノの蓋』をささげます。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 メモ帳に筆圧残り八月尽 ふとん屋の軒に顔出す燕の子 義士討ち入りの日の溜まり来る静電気 俎の寒鰤の目の盛り上がる 夜桜の灯影鼻梁に揺れにけり 船べりの鱗に春のひかりかな みづうみの底のひびわれ黒揚羽 冬満月蛸の頭の伸びにけり 夕日まで秋草をかきわけてゆく 鰯雲髪を切つたんだねと母 綿虫の吸ひ込まれゆく埴輪の眼 女郎蜘蛛糸を曳きたる能舞台 鬼やんま死しても空を飛ぶかたち 先に眼を逸らせしは吾檻の鷹 さざ波へ伸びてゆきたる桜の芽 祭笛ささら摺る子の伏し目がち 的中の矢の熱からむ麦の秋 本書の装丁は、君嶋真理子さん。 すべてお任せという滝口滋子さんだった。 ブルーを基調に爽やかな一冊である。 見返しは淡いブルー。 扉。 夏怒濤ピアノの蓋のあいてをり 句集『ピアノの蓋』は、着実に研鑚を重ねてきた滋子さんの満を持しての第一句集である。二十五年前のあのうぶな瞳の輝きは今も健在であるが、一瞬を掬い取る眼力、表現力は逞しくなった。 長命の家系でいらっしゃるので、まだまだ未来は長い。俳句があれば何よりの生きる力となってくれることだろう。 村上喜代子主宰の序文である。 女郎蜘蛛糸を曳きたる能舞台 この一句、演劇的である。能舞台のどこかに女郎蜘蛛が糸をかけたのことを詠んだのだろうが、女郎蜘蛛となったシテが糸を曳いて舞いながら能舞台を去っていくような、そんな一瞬をおもわせる。物語性をひめた一句だ。写生句としてもアングルが重曹的で構図的だ。能舞台の入り組んだ手摺のどこかに糸をかけた女郎蜘蛛がいる。そこからさっと目をあげれば大きな骨組みの簡素な能舞台へと視線がひろがる。静から動、そして静へと動きを運動も内包している。やはり演劇的だとおもう。面白い一句である。 今日はこれから近くのクイーンズ伊勢丹に寄ってから帰るつもり。 ヨーグルトを切らしてしまった。 朝は納豆とヨーグルト、 これ わたしの定番ね。 ヨーグルトのなかにはそれはもういろんなものをいれるの。 ヨーグルトを食べる、というより、混沌を食べるっていう感じかな。 いつかそれを写真で紹介しますね。 驚くよ。。。。
by fragie777
| 2018-09-10 19:51
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