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8月31日(金) 旧暦7月21日
野山はすっかり秋の風情である。 生落花生を生のまま食べてしまったyamaokaをはじめふらんす堂スタッフ総勢5人はすべて無事であった。 ひょっとして心配してくださった皆さま、 大丈夫です。 今日も皆元気に仕事をいたしました。 「生落花生生食事件(生がなんと三つ!)」の危機を乗り越え、今日はみなにお給料も支払えたのである。 生落花生をくださった山下きささんによると、わたしは二度もいただいており、一度目は湯がいたもの、二度目は生をそのままいただきそこに湯がき方が添えてあったもの。そしてわたしは、どうやらその通りに湯がいてスタッフたちに配ったらしいのだ。 全部忘れはてていた。 覚えていたのは、乾燥落花生とはちがうひんやりした舌触りのみ。 こんな感じで大事な手順をわすれさり、身体の感触と喰い意地だけで生きちゃってるyamaokaである。 それでは新刊紹介をしたい。 俳人・対中いずみ(たいなか・いずみ)さんの前句集『巣箱』に次ぐ第3句集である。「あとがき」によれば、 『水瓶』は私の第三句集です。二〇一二年春から二〇一八年春までの二六〇句を収めました。前句集『巣箱』上木後、「びわこ吟行」という会を始めました。メンバーは十名ほど、一回の吟行は車一台で移動できる五名以内という小さな吟行句会です。毎週金曜日に堅田に集合し、湖西か湖東に参ります。このひそやかな行のような営みから、本集の大半の句はうまれました。 とあり、主に琵琶湖周辺を吟行して生まれた第3句集である。毎週ということは週に一度は吟行をしていたことになる。そもそも対中いずみさんは、大津の本堅田というところにお住まいで、ここは琵琶湖の南西に位置している。琵琶湖は生活の風景のなかにいつもあるところだ。そのよく知っている親しい場所を毎週吟行したという。 それは瓶に一滴一滴水をためるような日々でした。また、日本最大の湖であり、近畿の水瓶と言われる琵琶湖へのリスペクトもこめて集名といたしました。 「水瓶」とは「琵琶湖」のことでもあった。 魚そよぐやうに竹の葉降りきたり 季語は「竹落葉」。夏の季題である。竹の葉が散るさまを「魚そよぐやうに」と喩えたのであるが、これは湖を自身の一部とみなしている人でこその措辞である。「そよぐ魚」とは、海でもなく川でもなく湖の魚である。澄みきった淡水にきらりと魚がひるがえるさまをよく目にしているのだろう。この一句における著者の視線は上方に向いていてきらきらと竹の葉が降ってくるのをやや眩しそうに眺めているのだが、それはまさに湖中の小さな魚のようだと思ったその時に、地上の風景と湖中の風景が混然一体となったような涼やかな甘美ともいえる思いに捉えられたのだ。「竹の葉降りきたり」という表現は、竹の葉のふるさまをまるでスローモーションのように呼び起こす。竹の葉が著者の足元にまで達するまでのたっぷりした静謐な時間。それもまた愛おしい時間なのだ。 水引に雨粒あたることわづか 栗鼠の目に冬日ともりてゐたりけり 雨のほか何にけぶらふ柳の芽 はなびらのすりぬけてきし桜かな 水を見てゐて沢蟹を見失ふ 上る蟻下りくる蟻と口つけむ いくつか句を紹介したが、これらはすべて凝視の句である。対中さんは目の前のものに「見入って」いるのだ。それは生命に「見入る」と言ってもよい。精魂こめて見入ることによって生まれた作品だ。 ほかに、 二三本鶯色の蘆の角 浅春の岸辺は龍の匂ひせる 白南風の雀が首を伸ばしけり けふ空のとほくなりたる稲穂かな 人待てばからだ傾く石榴かな 月朧音楽室に人満ちて 掌にうみたて玉子日永し 着信の青き光やみづすまし 古蘆に青蘆の丈まじりあり 芋の露赤子のつむじ大きかり 枝越しに象見え春の町が見え みづうみの入江にたまる木の実かな 思ふより熱き兎を抱きにけり この一句も好きな一句である。本句集を紐解いていくと私たちにはつねに「水」を感じる。それは著者の対中いずみさんの本句集への演出効果なのかもしれないが、(装丁からはじまって)著者の心に奥におかれた琵琶湖の風景が読み手へと伝わって「静謐な水韻」に支配されるのである。だからこそ、この一句の「兎」の体温の熱さが際だってくる。しんとした水の手触りのある作品世界のなかでの生き物の温もり、それは市井の雑踏のなかで感じるもの以上のものだ。ひんやりとした世界のなかで、命の手触りを愛おしむ。 本句集の装丁は和兎さん。 対中いずみさんにはかなりはっきりしたイメージがあって、それを和兎さんがブックデザイン化したことになった。 カバーの色はブルーであること。 龍のカットをいれて欲しいということ。 和兎さんは龍のカットをいくつか用意したのだが、採用になったのが、これ。 帯色は黄緑色に。 以上が対中いずみさんのこだわりだった。 表紙。 金箔の龍がこの句集に神秘的な趣を与えている。 対中さんの「龍」へのこだわりは、本句集をよめばうなづける。 龍がそこここに登場するのである。二句のみ紹介したい。 浅春の岸辺は龍の匂ひせる わたくしの龍が呼ぶなり春の暮 龍はきわめて身近な存在である。 亡き人の眼をのみ畏る稲の花 この一句にはっとした。 対中さんは、田中裕明を師とあおぐ俳人である。田中裕明の句に、 空へゆく階段のなし稲の花 裕明 がある。「亡き人」とはきっと田中裕明さんだ、ってすぐに思った。 龍をてなずけ呼び寄せちゃういずみさんでも、田中裕明さんの眼はコワイのだとおもった。 畏いものがあることは、よいことよ、いずみさん。
by fragie777
| 2018-08-31 20:31
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