カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
8月17日(金) 旧七夕 蒙霧升降(ふかききりまとう) 旧暦7月7日
新聞の記事を紹介したい。 8月12日付けの朝日新聞の「風信」に、シリーズ自句自解II ベスト100 『仁平勝』がとりあげられている。 「破調すれすれの句またがりが好き」という著者の自解句集。『汗の引くまで零戦を見てをりぬ」。 14日付けの讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、松下道臣句集『憤怒』より。 もう一人自分の居りし籐枕 松下道尚 自分とは誰か。誰でも自分が自分だと思っている。では自分を眺めている自分がいったい誰か。それこそほんとうの自分ではないのか。この句、昼寝のあと、どこかへ立ち去ったもう一人の自分を自分が眺めている。句集『憤怒』から。 16日づけ毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、大関靖博句集『大楽』より。 黒揚羽白昼に闇持ち歩く 大関靖博 揚羽は夏の季語だが、今の時期は夏と秋が入り交じっている時期。このところ、本欄の季語も夏になったり秋になったりしている。さて、今日の句だが、「白昼に闇持ち歩く」がいいなあ。たしかに黒揚羽は白昼の一点の闇かも。句集「大楽」(ふらんす堂)から引いた。作者は千葉県習志野市に住み、俳句雑誌「轍(わだち)」を主宰している。 そして、先日句集『管制塔』を上梓された内田茂さんから「宮崎の夕刊デイリー新聞社より取材があり、7月31日の「夕刊デイリー」に写真付きで取り上げられました」というメールをいただき記事を送って下さった。 延岡市出身で大阪府八尾市在住の内田茂さん(65)=俳人協会会員=が句集「管制塔」(ふらんす堂)を発刊した。 内田さんは、大阪市立大卒、俳句結社「青垣」(あおがき)同人、句誌「青垣」編集室チーフ。初句集で平成16~29年の作品230句を収めている。 タイトルの「管制塔」は、自宅近くに八尾空港があり《星飛んで管制塔に人の影》から取った。《変哲もなき郷なれど星月夜》《母の忌や七万石の稲熟るる》など延岡で詠んだ作品も収めている。 今日も新刊紹介をしたい。 A5判ペーパーバックスタイル。 72頁 4句組。 第一句集シリーズ。 著者の花房直正(はなぶさ・なおまさ)さんは、昭和37年(1962)静岡県生まれ、現在静岡県伊豆の国市在住。平成8年(1996)「童子」入会、平成14年(2002)「童子」を退会、同じ年に句歌詩帖「草藏」創刊同人。俳号・花房なお。静岡県現代俳句協会会員。本句集には「草蔵」代表の佐々木六戈さんが序文を、敬愛する先輩の西野文代さんが跋文を寄せている。 佐々木六戈代表は、 先ずは花房の集の名である『鶏頭を押す』に耳を澄ますと、誰しも正岡子規の鶏頭の句の谺を聴くはずである。 鶏頭の十四五本もありぬべし 子規 鶏頭を押す鶏頭を押す鶏頭 直正 この二句を紹介し、独自の「鶏頭論」が展開されていく。この論については生半可な抜粋は許さないものなので、序文を読んでもらって、こんな風な「鶏頭」があるのかと心底感服してもらうほかはない。 読解の試みとして、上五の「鶏頭」に「俳諧」を、中七の「鶏頭」に「俳句」を、下五の「鶏頭」に、直正のこの度の「句集」あるいは今も書き次いでいるところの「俳句」をそれぞれ代入してみる。 というのである。いやはやこんな風な読みがあるのかと、蒙を啓く思いだ。 最後に引用されている「明治二十四年十二月二日の高濱清宛の子規の手紙」紹介したい。 歌、発句共に永久のものに非ズ、殊に発句ハ明治に尽くべきものと小生の予言也。詩ハ永久なれども日本文学トハ言ひ難き所あり。若シ永久のものを求めなバ別に一体を創するにあり。 鶏頭の無限の連鎖は「別に一体」の鶏頭に接続される。 この「別に一体」とはまさに子規が粉骨砕身をして見いだした新しい俳句だったのだと。 序文で言う「鶏頭」とは「俳句」それ自体のことでもある。 西野文代さんの跋文は、 鶏頭を押す鶏頭を押す鶏頭 さりながらどこに扇子を置いたやら トイレットペーパー垂れてゐる朧 蟻穴に入るや地球の裏は空 地球儀の中はからつぽ梅雨に入る 私なりに心にひびく五句を選ばせていただいた。そして、正直そののびやかでしなやかななおさんワールドに驚いている。 西野文代さんは、花房直正さんのご実家の旅館に伊豆吟行で泊まられたこともあるという。 本句集の担当はPさん。 回り出す盆灯籠に日の匂ひ 羽根外すやうに白菜剥きにけり 身構へる蟷螂に草撓みけり なぞなぞを問う息白く広がれり 供へたる林檎に隠れたる位牌 水打つてけだもの臭き通りかな わたしも好きな一句だ。水を打つことによってそのあたり一帯が浄化されたように思えたのは一瞬のこと、なにやら生臭いような獣の匂いが鼻をついた。季語「打ち水」は、涼感をよぶために水を撒くことである、水を打ったあとには涼やかな風が立ち、洗い流された地面が心地よい、そんな「打ち水」が意に反して「けだもの」の匂いを呼び醒ました。「打ち水」という季語の本意に現実のリアルで挑戦してみせた一句。この一句を詠んでいるだけでも生臭い匂いが鼻をついてくるような気がする。 降り出しの雨粒灼くる匂ひせり これはわたしが面白いと思った一句。さきほどの「けだものの匂ひ」のように花房直正さんは特別な嗅覚をお持ちなのか。降り出した雨の粒が顔にでもあたったのだろうか、「灼くる匂ひ」がしたというのである。通常するかなあ、しかし、しないとは限らない、花房さんにはしかと匂ったのである。その彼の現実を一句にした。新しい発見であり、それはまさに六戈さん風にいえば「接続された一体の鶏頭」ということではないか。独りよがりの感性では決してなく、わたしはこれからきっと身体にあたった雨粒に「灼くる匂ひ」を嗅ぎ取ろうとするだろう。 父の経営する宿に、上田五千石先生が泊まられ、句を見て頂いたのが大学生の時だった。以後、数回、添削指導を受けたが、就職後遠退いた。その後、陶芸家の柚木寿雄氏の紹介で辻桃子主宰「童子」に入会し、当時、編集長であった佐々木六戈代表の句歌詩帖「草藏」に移り、現在に至っている。その間、西野文代主宰「文」や、境野大波主宰「大」に参加させて頂いた。現在、単身赴任で伊豆に居り、「人」名誉顧問の関野星夜先生、「鷹」同人の山岸文明先生、「狩」同人の𠮷川智子先生と知り合い、句座を共にできるのも、ひとえに俳句の縁である。年齢も性別も関係ない、純粋な縁である。この無名性を大切にして行 きたいし、広めても行きたい。私の様な者でも、続けられたのだから。 さて、悲しいかな、四半世紀の句歴で残せたものは、夥しい数の駄句と、同じテーマを徘徊する未熟さのみ。情けない話、もっとしっかりしていると思い込んでいた。しかし、己の欠点に気付けただけでも、句集を纏めた甲斐があったと、ポジティブに捉えよう。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 ほかに、 冬蠅のゐなくなりたる埃かな 春泥を来てO 脚のまま生きる 前略と書きてそのまま天の川 母刀自の小さく映る金魚鉢 ざくざくと雨の太藺を刈りにけり 朝顔の窓から犬を𠮟 りけり 自転車を立ち漕ぎするや愛の羽根 本句集の装丁は和兎さん。 出来上がってきたとき、「鶏頭を押す」というタイトルと、そしてこの紫が新鮮だった。 「いいわねえ、この色、鶏頭だから赤っていうんじゃなくて」と思わず叫んでしまった。 鶏頭を裏切る色だ。 さて、この色。日本の伝統色の古代紫にかぎりなく近い色である。 紫であっても、紫らしさを主張しない(へんな言い方か)いい色である。 タイトルと著者への意外性が面白いと思ったのだが、著者の花房さんはどんな風に思われているのか、まだ伺っていない。 鶏頭を押す鶏頭を押す鶏頭 本句集を代表する一句であり、圧倒的である。忘れられない一句となる。序文で佐々木六戈代表は、この「鶏頭」に深遠なる意味づけをされていてそれはそれで感心してしまったのだが、この一句、そのまま読んでもすごく面白い。「押す」という言葉につりあう植物と言ったら鶏頭以外には考えられない。人間が押すのでもいいし鶏頭が互に押し合うのでもいいし、つまりは「押す」という行為に存在感の重量を以て応えることができるのは一本の鶏頭のみである。やや等身大の鶏頭の群の前に立ってみたらどうだろうか。前に立ちはだかる鶏頭の気に押されて思わず押し返したとき「鶏頭を押す」行為の手触りが、確実に全身を貫く。「鶏頭」は緊密な質量を以てこの世に屹立している。 ふっと思ったのが、「十四五本もありぬべし」と仰臥の状態で詠んだ子規は、もし二足歩行(?)することができたら、この一句のように鶏頭を詠んでみたかったのではないだろうか、と。 明日から「俳句甲子園」が始まる。 公式Twitterはこちら→「俳句甲子園」 審査員の方々は、高野ムツオ、西村和子、中原道夫、正木ゆう子、星野高士、小澤實、夏井いつき、岸本尚毅、関悦史、阪西敦子、高柳克弘、神野紗希 の皆さま。 ふらんす堂とご縁の深い方々である。 実はわたしはこの「俳句甲子園」をまだ見たことがない。 ひえー、お許しくださいませ。 行くと若い諸君の熱気と情熱に圧倒されて、それはもう感激してしまうということだ。 じつは、日本各地に行ったことがあるyamaokaであるが、四国だけはまだ行ったことがない。 ひえー、 こんなに俳句のお仕事をさせてもらっているのに。。。。。
by fragie777
| 2018-08-17 20:54
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||