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8月7日(火) 立秋 旧暦6月26日
空蝉。 このあたりいちめん空蝉だらけだった。 立秋である。 昨日から探しつづけていたもの、朝もう一度探し、昼ご飯を食べて探し、おやつの時間に探し、いよいよダメか、、、 ほぼ諦めた。 夕方になってそれがないのなら違うかたちでアクセスしようと思って作業をはじめたら、出てきたのである。 良かった!! だが、わたしをからかうのもいい加減にしてほしい。 わたしは勝ち誇ったようにスタッフたちに、 「ほらね、わたしが失くすなんてありっこないのよ」と言ったら、 「ははははっ、そうじゃないでしょ。よく失くすけど出て来るってことでしょ」とみんなに笑われた。 そうか。。。 微妙に違うか。。 しかし、見つかったのは嬉しいのだけど、明日もまた必死になって探しものをするような気がする。 今日必死で探し物をしているとき、つぎの課題がもう見えていたんだもの。 次も神の哀れみはあるだろうか。。。 新刊紹介をしたい。 俳人・津久井紀代(つくい・きよ)さんの前句集『てのひらに』に次ぐ第4句集である。 「神のいたづら」という句集名がおもしろい。 蝌蚪の紐神のいたづらかも知れず 題名「神のいたづら」は集中に収めてある蝌蚪の紐の不思議からの発想であるが、地球上のすべて、今私がここに存在することも、詩を書くこともすべて神のいたずらのように思えるからである。 「あとがき」にこう書く津久井紀代さんだ。自身の存在理由を問うたとき、それを「神のいたづら」かもしれないと思う、それはとても俳諧的だ。深刻ぶらず軽量化してみせることによって風通しをよくする姿勢。これもまた丹田に力の要ることである。 炎帝とたたかふ眉を描き足して 今年はことさらの暑さだった。外出するときはまさに炎帝と闘うような気分で出かけたのである。武装アイテムとして作者は「眉を描き足し」た。女が武装するときのまずの一歩は「眉を描く」ことであるとわたしは思う。作者の気合いの入った眉毛の描きさまが眼に見えるようだ。「描く」のではなく「描き足す」と表現したことで感情が増量された。いつもより濃い眉毛ができあがって、それに比例して口紅も濃くなったかもしれない。いいのよ、そんなこと、ぎらぎらと太陽の照りつける炎熱の世界に飛びだすんだから。眉をビシッと描き足したことによって身体中にエネルギーが充満し、待ち構えている炎帝なんてその目力で一気に撃退してしまう、そんなスピリットに満ちた一句である。 余談であって恐縮だが、先日の「田中裕明賞の授賞式」に、わたしも眉毛を忘れずに描いた。ときどきこれを忘れてしまい、ひどく間のぬけた顔のときもある)。必要なものがあり新宿駅で途中下車してデパートに寄った。デパートのトイレでふと自分の顔をみたとき、あらら、眉毛からラインが大きくはみ出してとんだ暴れた眉毛になっている。(ああ、田中裕明賞で力が入ったか、)と一瞬思ったが、そうではなかった、ただ雑にぞんざいに描いただけだったのだ。慌てて擦って落としたのだが、気付いて良かった。とんだ笑いものになるところだったのである。 働く手大きく見ゆるクリスマス この句も好きな句である。 なんかいいなあ。自身への手への慈愛にみちた眼差しがまずある。それはまた手にとどまらずこうして生きて働く自分という人間をいとおしむ心につながっていく。そんな気持は少しも俳句に書かれてはいないのだが、「働く手が大きくみえた」というそのことだけで伝わってくる。そしてクリスマス。主イエス・キリストの生誕の日である。「クリスマス」という季語によって、さらに大きな存在の眼差しを感じさせ、その働く手をもった人間を包みこむようなやすらぎがある一句だと思う。 労働の手、すなわち祝福された手である。 そしてイエスの手の釘痕を思う。 ほかに あめんばう水輪いくつ作れば死 一病のたやすからざる懐手 星祭赤い玉子を買ひ戻る 春眠の子が春眠を蹴つてをり 三伏もをはりのころの手足かな 象もまた母国を恋へり冬銀河 蝌蚪の紐整理整頓してみたし 早春の野にキリストは足そろへ 母捜すため綿虫の漂ふは ふゆざくら息がこんなにさみしいとは 白粥を吹けばはるかにフユの音 鶯餅鳴き出さぬやうつまみけり 花びらの冷たし母の忌が近し 深川はどこ曲りても橋朧 野ざらしのイエス冬木となりゆくも 人の世に巣箱を架けて兜太逝く 黙深き兄の正座や流れ星 十六夜の畳のへりのなつかしく 掌中は星の冷たさ母逝けり 霜柱さくさく踏んで母訪はな 自分の理想とする俳句に少しでも近づけないか、もうすこし、もうすこし、と思っているうちに第三句集『てのひら』から十七年が経った。強く勧めてくださる方がいて第四句集を「神のいたづら」として纏めることを決意した。この中には二〇〇二年から二〇一八年二月まで、十七年間のもの三百五十句が収めてある。今も母への想いが断ち切れず、母三十句を以って句集の締め括りとした。(略) 私は山口青邨先生の「夏草」で育てていただいた。「夏草」には古舘曹人氏、黒田杏子氏などの優れた先輩がいて刺激的だった。中でも有馬朗人先生には俳句を始めた当初から大いに刺激を受け、学ばせていただいた。現在に至るまで有馬先生の選を仰ぐことが出来ることを幸せなことと思う。少しでもご恩に報いるべく努力を重ねている。 「あとがき」を抜粋して紹介した。津久井さんは、「有馬朗人研究会」を立ち上げ、すでに6冊の本を上梓されている。「俳句のみならず、評論にも面白さを見出し、書くことへの興味は尽きない。」と「あとがき」に記されている。 本句集の装丁は和兎さん。 落葉降る中を大きな落葉かな 本句集のなかでは地味な句かもしれないが、好きな一句である。落葉が降っているとき私たちがよく眼にする光景である。そのことを無意識に見ているわたしたちだが、それをあえて句に言い止めた。すっきりと詠まれていて誰も文句のつけようがない。ねらいを感じさせない写生句だと思う。韻律も整っていてすっと胸におさまる一句だ。 再び台風が近づいてきている様子。 お互いに気をつけましょうね。
by fragie777
| 2018-08-07 20:39
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