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7月29日(日) 旧暦6月17日
「おらほせんがわ夏まつり」がはじまった。 28日29日と続けて行われる予定であったが、昨日は台風で流れた。 写真は準備段階。 街をさまざまなイベント(?)が練り歩き、たとえば阿波踊であったり、神輿であったり、リオからやってきたダンスであったり いろいろと多彩なそれらが、この会場に結集するのだ。 この駐車場がその会場。 さっきここを通ったら、「あら、こんにちは」と声をかけられた。声の主はお洒落なブティックの女主人。今日は祭Tシャツをきて、焼そばを売るらしい。「たいへんですね。頑張ってください」とわたしは挨拶をして通りすぎる。 かつては祭をみることもあったが、もういまは祭の賑わいをいかに回避して、家にもどるか、ひたすら祭りの傍をとおり過ぎてゆく。 スタッフのPさんは、友人の息子さんがやっているビールバーの助っ人にかり出されて、道ゆく人にビールを売るらしく、張り切っていた。 台風一過のこの暑さである。 飛ぶように売れるだろう。 ただでさえ祭りのような賑やかさ。 この日はものすごい人出である。 祭りの前。 練習に余念がない。 男たちも華やぐ。 もう少ししたら、はじまるだろう。 友人のフランス文学者の高遠弘美さんから、『失われた時を求めて⑥第三篇「ゲルトムントのほうⅡ』を送っていただく。 前回の翻訳よりすこし遅れていたのだが、(お義父さまの介護があったりして大変だったのである)こうして手にすると、「ああ。出たのね」と感慨深い。高遠さんがどれほどこの仕事に精魂をかたむけているか、その思いの一端をいささかなりとも知っているので。 帯の裏面に訳者による本編の要約があるので紹介したい。 第三篇「ゲルトムントのほう」は『失われた時を求めて」のなかでも、社交界の皮相さを通じて、スノッブな人間たちが織りなす壮大な滑稽劇を見事に描きつくした類い稀な小説である。本巻の最後は悲しいエピソードで幕を閉じることになるけれど、そこにふと顔を出す人物たちの滑稽さを描くときにもプルーストは容赦しない。(訳者) 登場人物の中心はヴィルパリジ夫人である。ヴィルバリジ夫人については、本著の栞に主な登場人物のごく簡単な紹介がある。(これはすこぶる便利なのだ)それによると、「祖母の友人でゲルマント公爵夫人の叔母。サロンを主宰」とある。 本編は、「私」によるヴィルパリジ夫人への辛辣さにみちた人物評から物語ははじまる。 すこし読みすすんでいって、「私」による「才能」というものについてのごく短い考察がある。それがあまりにも正鵠を射たものであるので紹介したい。 才能はある種の精神的気質に由来する生きた産物である。ひとつの感受性だけが際立っていて、書物を通してでは気づかないそうした感受性のさまざまな現れ方はその人の生活、たとえば好奇心のあり方とか、折々の気まぐれとか、――社交界の繋がりを増やしたり維持したりするためでなく、また、単に社交上の関係でそうするのではなくて――もっぱら自身の喜びのためにどこそこへ行きたいといった欲求のなかに顕著に感じられるものだ。 この「社交界」という箇所をたとえば「俳壇」とか「詩壇」とか「文壇」などに置き換えてみてもいいかもしれない。わたしにはすごく納得できる考察であり、ふっとある顔が浮かんだりもする。 そしてまた本著の魅力のひとつは訳者・高遠弘美さんによる「読書ガイド」である。これは本当に面白い。 そこで「挫折」ということに触れている。すこし長いのだが、抜粋しながら紹介したい。 プルーストを最後まで読めなかったとき、人はしばしば「挫折」という言葉を使う。だが、岩波文庫で二十六冊の『マルドリュス判千夜一夜物語』を最後まで読めなかったとき、『千夜一夜物語』に挫折したと言うだろうか。十冊の『西遊記』を読み終えることができなかったとき、「挫折」という言葉を用いるだろうか。私の思うに「挫折」という陰鬱な響きを発する単語は、ことにプルーストやドストエフスキーといった世界の文学史に屹立する大作家の作品を完読できなかったときにしばしば耳にするような気がする。そこにはあとで紹介するファニー・ピションが指摘するようにあえて言えば知的スノビズムが関わっているのではなかろうか。「プルースト、読んだよ」とか「カラマーゾフ、面白いね」と言いたいのに言えないときの一抹の悔しさのせいと言えばいいのかもしれない。さりながら、読者にはとかくスノビズムがつきものだとはいえ、スノビズムを満足させるための読書はやはりどこか歪(いびつ)である。読書は根元的に生きる力、生の喜びに結びついていなければつまらない。それゆえ、「挫折」という、逆方向のスノビズムの存在を窺わせる言葉は、率直に言って、プルーストに限らず、中断した読者にふさわしい言葉ではない。(略) 皆さまも振り返って考えて頂ければと思う。買った本、借りた本で最後まで読み通した数はどれくらいあるのかと。途中で読みさした本は十指に余るという方が大半なのではあるまいか。ましてや『失われた時を求めて』は世界最長とも言われる小説である。途中で気力がなくなって本を置いたとしても致し方ない。ただいつの日かまた手にとる機会がないとは限らない以上、その日を気長に待てばいいのである。第一巻で書いたようにプルーストを読んだからと言って人に吹聴する必要なさらさらないし、読めなかったからと言って、それを「挫折」と考えることもない。いくらスノッブの生態を事細かに描いている小説だからと言って、読む側がスノビズムに陥った意味がない。繰り返すようだが、読書は内面の世界を豊かにし静かに変革してゆく人間の営為にほかならないからである。 この一連の文章には見出しがつけられていて「読書には挫折ということはなく、読むべき『時』があるだけ」とある。 読書というものに非常にポジティブな意味づけをしておられる高遠さんだ。 いつだったか、高遠さんと話をしていて、自分にとっての「読書」という話題になった。 わたしは、すごく率直に「読書はあるときの自分にとって、現実からの『逃避』(甘美な逃避)になることもある」と言ったことがあった。 するとその時、高遠さんはちょっとへんな顔したのだった。 あとから、「読書は逃避ではあらず」と、ちょっと叱られた覚えがる。 「挫折」についての文章のみならず常日頃から「読書」というものがいかに人生において、人間が生きることにおいて力となりうるか、それを思っておられる高遠さんである。 高遠さんには、「ふらんす堂通信159号」で、「プルースト翻訳のあれこれ」というテーマで原稿をお願いしてある。 いまから楽しみである。 『失われた時を求めて』の完訳(こういう言い方でいいのかしら)を目指している高遠弘美さんである。 「第六巻ではまだ全体の半分にも達していないのだ」とある。 目もくらむような道のりである。 一友人として、その志を心から応援したいと思う。 おっ、 大分下が騒がしくなったぞ。 イベントのひとつがとおり過ぎていくらしい。 写真にでもとるか。。。。
by fragie777
| 2018-07-29 19:14
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Comments(1)
山岡喜美子様
いつもご支援ありがとうございます。長丁場なので、ときどきは自らの非力を思ふこともありますが、さういふとき友人をはじめ、読者の方々のお言葉を拝見すると大いに励まされます。どうかこれからもよろしくお願ひいたします。高遠弘美
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