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7月5日(木) 旧暦5月22日
すごく脚の長い蜘蛛を見つけた。 脚の長さ、わかるかしら。 こっちの方がわかりやすかも。。。 山歩きをすると、いろんな命がひしめいていて思いがけないものに出会う。 余談であるが、昨日のBSの番組「偉人たちの健康診断」というのだったかな、そこで、空海は実は躁鬱病を患っていて、それを彼は高野山での山歩きで克服していったというより、自身にはもちろん躁鬱病という認識はないのだが、高野山で生活、いや修行か、をするようになってから、躁鬱的症状がいつのまにかなくなっていったというのだ。そんな驚くべき新説が出現しへえーって興味ふかく見ていた。 かの空海が躁鬱病だったなんて。。。。 (個人的にはこんな風にレッテル貼りするのは好まないけど、わたしたち好きよね。こういうのって) きっと見ていた人もいるでしょ。 午前中に後藤比奈夫先生よりお電話をいただいた。 「そちらは雨どうです」 「すこし降り初めました」 「こっちは避難勧告が出ていて……」 「ええっ、大変ではないですか。先生、非難されるのですか」 「いやあ、ぼくはしませんよ。もう100歳の年寄りだから動けませんね」 「大丈夫ですか?」 「大丈夫でしょう」 「ところで昨日の毎日新聞の夕刊に片山由美子さんが、『諷詠』三代の祇園祭」と題して僕たち親子のことを書いてくれましてね」 ということでFAXをいただいた。 そこには、 東山回して鉾を回しけり 後藤比奈夫 ころはよし祇園囃子に誘はれて 後藤立夫 の二句が掲げられて、祇園祭を詠んだ後藤比奈夫と後藤立夫の俳句をとおして、夜半に始まった親子代々の「諷詠」の継承者に思いを馳せている。とくに一昨年亡くなられた後藤立夫氏については作品の特質を通して彼が志そうとしたものに触れている。抜粋して紹介したい。(毎日新聞・7月4日夕刊「定型の窓から」片山由美子) 立夫は夜半が創刊した俳誌「諷詠」を2012年に継承したが、病に倒れ、16年6月に72歳で死去した。 祭が大好きだったという立夫の第2句集のタイトルは『祭の色』。そして一周忌の昨年、遺句集『祇園囃子』が刊行された。 〈囃子方こぼれさうにも鉾回す〉〈鉾町の二條若狭屋てふ干菓子〉集中にこんな句があり、何度も通ったであろう祇園祭の雰囲気をさりげなく伝えている。そして句集の最後の句であり、辞世となったのが、〈ころはよし祇園囃子に誘はれて〉。朗らかだった作者が、ちょっとそのあがりまでと言って雑踏に紛れてしまったかのようだ。 立夫の俳句は、ウイットに富んだ発想と、口語調を交えた独特の文体が特徴である。〈驚いたやうに風船割れにけり〉〈風吹いて噴水の横向きになる〉〈会ひに行くやうに茅の輪を潜りたる〉見立ての面白さだけではなく、当たり前だと思えることを五・七・五のリズムに乗せるとにわかにいきいきと立ち上がってくることを示す俳句である。有季定型という伝統に、いかに現代性を吹き込むかを考え続けていたと思われる。 父の比奈夫は、百一歳の今も俳句の新しさを求め続けている。〈ところどころ渇筆雨の大文字〉。大文字からの連想で「渇筆」を思うなど、まさに比奈夫流である。昨年刊行した句集『あんこーる』はタイトルからして絶妙。前句集『白寿』に最後と書いてしまったので、という次第。百歳を前に〈もて余すほどでなけれど日の永し〉と詠むなど、その柔軟な発想が「諷詠」を支えてきたのである。 立夫亡き後、長女の和田華凜が四代目主宰となった。〈つなぎし手離し祭の中へ消ゆ〉は父の最期を詠んだ作品。長い歴史をもつ祇園祭が今年も滞りなく行われる中で、俳誌の伝統の継承などをふと思った。 夕方、どうされておられるかと比奈夫先生にお電話をした。 「そちら雨どうですか。大丈夫ですか」 「大分降っているようですが、大丈夫ですよ」 「安心しました。新聞記事拝読しました。」 「ふふふ、読みましたか。なんだかねえ、ぼくんとこで祇園祭を独り占めしちゃったみたいで、祇園さまに叱られそうです」 と笑って電話をお切りなったのだった。 鱧の骨上手に切れて祭膳 後藤夜半
by fragie777
| 2018-07-05 20:10
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