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6月1日(金) 旧暦4月18日
飯能・名栗に咲いていた梅花空木(ばいかうつぎ)の花。 上品な花である。(名前からしてね!) 蝿取撫子と矢車草。 矢車草はなぜか心惹かれる花である。 矢島渚男氏の『歳華片々ー古典俳句評釈』の刊行がすこし遅れている。 実は、矢島先生があまりにもこの一書に力をいれるあまり、推敲に推敲を重ねてなかなか校了にならないのである。 ゲラを送るとそこに直しが入る。ふたたび送る、ふたたび入る。 そんなことの繰り返しで、校了とならないのだ。 問い合わせや予約注文をいただいているのだが、お客さまには苦しい言い訳をしている。 それほど、矢島渚男氏が力をいれられている一書というべきか。 目下最終校正の段階であと一歩というところ。 本書の特色のひとつに登場する近世俳人たちの索引がつく。 その数なんと110人である。 貞門派、談林派、芭蕉、蕪村、一茶にいたる近世俳人たちがのきなみ顔つをらね、近世俳句の豊饒さに読者は驚くことになるだろう。 今日読んでいた箇所で、鶯の句が出て来た。 先日旅した木曾街道といい、すこし前に遊んだ名栗の里といい、鶯と郭公が競うように鳴いていた。 ちょっと引用してみたい。 江戸へやるうぐひす鳴(なく)や海の上 太祇 船便で上方から江戸へ送り出される鶯たち。よい日和に恵まれて海の上で朗らかにさえずりはじめた。『太祇句選』(1772)。 こんな句を読むと、江戸時代がいかにこころの豊かな時代であったかが想像される。啼鳥も虫も愛玩した。鶯にも方言があって、奈良産のものが上物で、ついで信州の木曾奈良井宿のものというふうにランクができていたという。すると、これは奈良地方で捕獲されたものかもしれない。 信州木曾とあって、わたしは木曾街道で響き渡るように啼いていた鶯を思い出したのだった。奈良井宿ではないが、きっと上物の部類になるんじゃなかって。知っていればもっとよく聴いてみたのだが。そうして奈良にお住まいの方、鶯の方言が最高ランクなのだそうです。いったいどんな鳴き方をするのだろう。こんど注意して聴いてみて、その上物ぶりをわたしに教えてくださいな。 本書は、文庫本サイズであるのでかさばらずしかも容量はたっぷりと入っていてまさに読みごたえのある一書である。 君嶋真理子さんによる装丁も読み捨ての文庫本という感じではなく、書物の趣がある。 ああ、なんとしても一刻もはやく校了にしたいのだが。。。。 新刊を紹介したい。 「自句自解シリーズ」の一環として刊行されたものである。 著者の菅美緒(すが・みお)さんは、俳誌「杉」に所属して森澄雄に学んでこられた俳人である。句集は『諸鬘』『洛北』『左京』の3冊を上梓しておられ、現在は「晨」「梓」「航」の同人。本書はその3冊の句集より100句を選んで自解をほどこしたもの。面白いものを書かれるのではないかとシリーズにお誘いしたところ、一気に書き上げてくださった。評論もよくし、文筆が身についておられるのだと思う。 いくつか紹介したい。 泣きたくて笑つてしまふふきのたう 能登出身の老夫婦が、私達の近くに住む長男一家の所に引っ越して来た。その婦人が時々母の所に話しに来るのだが、それは泣きたくて来るのだった。老年になってからの環境の変化、慣れない長男夫婦との同居。働き者の気丈な人だっただけに、ストレスも大きかったのであろう。ちらちら聞こえてくる話し振りは切なかった。 庭には、ふきのとうが顔を出していた。(『諸鬘』昭和五五年) 考へるとき仰向けに夜の秋 夫は物理を教える高校の教師だったが、傍ら、地味な物書きであった。若い頃はチェホフに憧れて劇作家になるのが夢であった。一度は賞を貰い、劇団民藝で上演されたのだが、散文に転じた。 書斎に大きな机を置き、和室に小さな文机を置いていた。原稿用紙を前にして、畳に仰向けになり、大きな目を開けて天井を見つめていた。夏も終りに近い夜であった。 (『諸鬘』昭和六二年) 掴まれし青大将の舌稚(わか)し 私達が吟行のためによく行く、横浜市のふるさと村。ここでは、保育園児の一団によく出会う。やや小さな青大将を掴まえたのは、保育園の若い男の先生。先生は青大将を高々と掲げて、この蛇に触りたい人は並びなさいと言った。私も並んで触らせて貰った。 まだ幼い青大将は多くの人間に触られて、恐怖の悲鳴を上げていたに違いない。 その舌が、痛々しく、いとおしかった。(『左京』平成二一年) 巻末の「大切にしている三つの事」は、森澄雄の弟子らしいまた読書家らしい著者の筆力のあるものだ。 その三つのことは何か。 ここでは、そのうちの一つだけ紹介したい。 それは「滑稽ということ」 「滑稽」ということについて、菅美緒さんは二つのことをとりあげる。それは「自分を笑う心」と、そして「、他者を観察し、ありのままを描写したところ、結果として滑稽味が出る」とうこと。それぞれ例句をあげて考察する。ここでは後者のところのみ紹介したい。 青蛙おのれもペンキぬりたてか 芥川龍之介 鮟鱇のよだれの先がとまりけり 阿波野青畝 恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく 加藤楸邨 観音の腰のあたりに春蚊出づ 森 澄雄 両頬に墨つけふくら雀かな 川崎展宏 これらの句は、他者を観察し、ありのままを描写したところ、結果として滑稽味が出た句である。 私が思うに、人間にしろ他の生きもの(草木を含めて)にしろ、存在そのものに、不可思議と滑稽の要素は内在しているのである。それらの存在(自分をも含めて)を私意を離れて的確に、深く描写する時、自ら滑稽味が滲み出てくる場合がある。俳句における滑稽は、そういうものが望ましいと思う。 と書き、チエホフの「桜の園」に話がおよぶ、哀愁にみちた戯曲「桜の園」が、何故に「喜劇」と呼ばれるのか、その所以を明らかにしていく。それがまた俳諧の滑稽へとつながっていくのであると。 今日は夕方からお茶の水にある山の上ホテルにて、「件の会」による「みなづき賞」の授賞式と祝賀会があって、スタッフのPさんが出席している。 受賞者は、宮坂静生氏。受賞対象は、著書『季語体系の背景 地貌季語探方訪』(岩波書店刊) この大書は一つひとつの地貌季語が持つ特異性を理解する手がかりを与えてくれるばかりでなく、俳句の領域を超えて日本人の暮らしの真の姿を知ろうと行動を重ねて来られた著者の努力の賜物として日本人の精神史にも至る巨きく深い内容となっております。 とご案内に書かれている。 宮坂静生さま 第十五回「みなづき賞」のご受賞おめでとうございました。 心よりお祝いを申しあげます。 なお「件の会」のみなづき賞の選考委員はつぎの方々である。 井上康明、榎本好宏、階未知子、黒田杏子、高野ムツオ、西村和子、仁平勝、橋本榮治、星野高士、細谷喨々、山下知津子、横澤放川 の各氏。 さ、書き上げた。 帰ろう。 実は、今日足に合わない靴を履いてきてしまって、すごく辛いのだ。 あれを履いて帰るかと思うと足がすくむ。 車で帰るのだけど、駐車場までいくのがツライ。 裸足で帰りたい気分。 そうすっかな。。。 もう暗いからわかんないかも。。。
by fragie777
| 2018-06-01 19:47
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