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4月8日(日) 花祭 虚子忌 旧暦2月23日
今朝の新宿副都心。(鳥が一羽飛んでいることにこの写真で気づく) わたしは太極拳に行くために急いでいた。(すでに遅刻である) しかし、あまりにも新緑の緑がきれいで足をとめた。 欅並木である。 ここをくぐると誰でも「緑星人」になってしまうわよ。 太極拳が終わると新宿の駅ビルでお昼を食べる。 仲間たちと食べることもあるし、ひとりで食べることもある。 ここはよく行く「箱寿司」の店。 おもに売っているのだが、狭いスペースで食べる場所もあるのだ。 わたしの定番。 鯖のバッテラ半分と鰺のにぎり半分。 しめて700円ちょっと。 20代のときから通っている店である。 内装もなにもかも少しも変わってないというのが、なんともすごい。 その後京王デパートの6階にある「鳩居堂」で文房具を買ったあと、ぼんやりと歩いていたら、 「yamaokaさん!」って声をかけられる。 (うん?誰…) と声のするほうを見たら、なんと俳人の折勝家鴨(おりかつ・あひる)さんである。 折勝さんは、「鷹」に所属されて目下営業部長さんをしておられる方だ。 ふらんす堂から昨年第一句集『ログインパスワード』を上梓されている。 「あら、まあ」と驚いていると、「ちょっとお時間いいかしら」と言われて案内されたところが、 という展示会である。(4月5日から10日まで京王デパートの6階で開催) 「実はね、わたしはいまちょうど見終えたところなんだけど、ご紹介したくて」と折勝さん。 そして紹介くださったのがガラス工芸作家の晶阿弥博子(しょうあみ・ひろこ)さん。 伺えば、晶阿弥博子さんは、「鷹」に所属しておられる俳人でもあるということ。 作品を拝見したのであるが、一本の画筆といっても先にダイヤが埋め込まれているもので、細やかに刻んでいくというたいへん繊細なもの。商品であるので、写真では紹介できないのが残念である。(名前を検索すると画像で作品がみられます) 晶阿弥博子さん(左)と折勝家鴨さん。 折勝さんは、「鷹」のお仲間へのプレゼントなどに、お仲間といっしょにお金を出し合って購入されることも。 晶阿弥博子さんは、ガラス工芸歴のほうが俳歴よりも長く、子育てをおえてよりガラス工芸にめざめ、独学で学ばれたということである。 折勝さんとはまったく突然の出会いだった。 「鷹」4月号で、高柳克弘さんによる「鴇田智哉」さんへのインタビューが掲載されていて興味ふかく読んだ。 タイトルは「ひらかれていたい」。 聞き手の高柳さんのツッコミ方もよかったのか、鴇田智哉というこのなかなかとらえどころのない不思議な俳人を構築しているなにかに触れ得たようにおもった。しかし、なかなか奥が深い。。 とても面白くて、一読に値いします。 わずかであるが紹介したい。 ―― 主宰の今井杏太郎さんの句はどう思いましたか。 鴇田 最初はあまり面白いとは思わなかったんですよ。当り前のことが書いてあるなと。ただ、俳句を続けていてあるときふと、気づいたんですよ。これはただものじゃないなと。そこから毒気に当たったようになりましたね。 ――その頃に好きだった杏太郎さんの句はありますか。 鴇田 「ゆふかぜの先にうかんで雀の子」とか。「先に」っていうのは、面白いなと。 ーー 哲学と結びつくような……。 鴇田 結びつきましたね。杏太郎先生はものすごく細かく考えてみる人だったんですよね。季語を分解したような句の成り立ち方をするんです。「外を見て障子を閉めてをはるなり 杏太郎」、障子って、仕切りですよね。内と外の。この句って、そういう障子の機能そのものでもあるし、家の中から外の寒さを階間見る寂しさというか、情感もにじんでいる。「障子」ってこういうものかと、そういうことw考えるのが好きでしたね。杏太郎先生の抒情的な面よりも、哲学的な面にひかれたんです。 (略) ―― 鴇田さんの句に湘子が否定的だったのは、句の切れが弱い、ということがあると思うんです。切れについてはどうお考えですか。 鴇田 杏太郎先生は、上五が五文字の名詞の主語で切れたあと、述語が続くのを、すごく嫌っていました。そういうときは字余りになっても助詞を入れろと。滑らかな調べを重視した。たとえば「八重桜ひらいて~」だと、「八重桜のひらいて~」とするんです。それは沁みついていますね。でも実際には、六音にはしたくないから四文字の言葉を探すんです、「の」を入れるために。上五で切りたくないんです。 ―― 第一句集はとくにそういう文体が多いですね。「白息のほかにかすれてゐる木々も」とか。 鴇田 途中で切ることは切るんです。「~あり」や「~て」で切ったり。息継ぎ風の、軽い切れ。その「白息」の句は、「に」のあとにふっと息継ぎの切れを入れているつもりです。 ―― 「~や」とか、強い切れではないですね。 鴇田 ふつうの句が「3キログラム」で切れているとすれば、僕の切り方は「3グラム」。でも、切っていることは切っているんです。グラムで言っていいのかわからないけど。それは切れとは言わないよ、と言われたたおしまいなんだけど、僕の句の並びだけで読んでいくと、見えない切れが見えてくるんじゃないかと。他の人の句と比べると、切れが弱いということになるかもしれない。 ―― 鴇田さんの句はそういう意味で、アンソロジーピースとしては不向きなのかもしれません。たとえば歳時記の中の一句として見たときよりも、ある句のかたまりで見たときに面白さが見えてくる。一つのアート作品に近づいているような。興味深いです。 (略) ―― では最後に、若い世代へのメッセージをお願いします。 鴇田 めぐりあわせはあるけれど、いい先生についた方がいい、とは思います。 ―ー 鴇田さんは、本当に奇跡のように、いい先生にめぐりあったわけですよね。 鴇田 運もあり、出合うものなので、難しいかもですが。あとうまくならない方がいいよ、ということ。器用な必要ないよ、そこに俳句の面白さはないよ、ということ。うまいのは感心する面白さはあるかもしれないけど、その句から醸し出されるものというのかな。それはうまさとは連動していないんじゃないか。作者自身も思ってもいないようなところで出てくる言葉が大事だったりする。そういうこともあって、「ひらいて」いなくちゃいけないと思うんです。 (略) 鴇田智哉という俳人について、眼がひらかれていくような面白いインタビューだった。 これは余談であるが、インタビューのなかで鴇田さんが上智大学の哲学科を専攻し、その課程で神父さんたちに会って信仰というものについてのイメージを変えていく、という興味ふかい話があるのだが、その神父さんのひとり、ドイツ出身のリーゼンフーバー先生のことが出てくる。上智大学で教鞭をとられていた有名な神学者である。その「形而上学」の授業で啓蒙されていく話は興味ふかいのだけど、その先生のことを「目がきれいだった」という鴇田智哉さんがわたしはいいなあと思ったのである。 実は、わたしもこのリーゼンフーバー先生のことは知っている。 聖書を読む会があって、ふらんす堂の仕事をしながら通ったことがあるのだ。 上智大学の一室だったか、いやきっと聖イグナチオ教会の一室だったかもしれない、あまり広くない一室に仕事や勉強をおえた男女とりどりが老いも若きもあつまって、リーゼンフーバー先生のもとで新約聖書を読むのである。 読み終えたあとに先生の講話がある。 痩せて背の高いきわめてエレガントな神父さまだった。 わたしはプロテスタントであるが、カソリックには興味をもっていて、いったい聖書の読みにいかに違いがあるのか、すごく興味があったのだ。 何回か通った。 そしてやはり決定的に違うものがある、と思って止めたのだった。 カソリック神学は、アリストテレスの形而上学を下敷きにしているんだ、ということを強く思ったのだった。 自分が体感した信仰というものと、感触がどこか違う、そんな風に思えて、エレガントで気高い神父さまであったけれど、忙しい仕事の合間をぬっての聖書講義を止めてしまったのだった。 よもや鴇田さんが講義をうけていたとは。。。。 リーゼンフーバー先生。 たしか、「雲の上の人」って呼ばれていたような気がする。。。 長いブログになってしまったな……。
by fragie777
| 2018-04-08 18:01
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