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12月7日(木) 大雪(たいせつ) 旧暦10月20日
枯れの風景。 この色合いが素晴らしい。 大好きな色の組み合わせだ。 こういう風景のなかでわたしたちの色彩感覚は養われていくのだろう。 生きていてつらいことが多いのですが、山岡さんのブログを読むとほっとします。 というメールをいただいた。 おっ、嬉しいな。 わたしの日々の愚行も少しは役に立っているのか。。。 メールを下さったのはある若い表現者の方。 こんなこと言われちゃうと、yamaokaはますます調子に乗って生き恥さらしちゃうぞ。 そうすると仁平勝さんあたりから、「調子に乗りすぎ!」ってツッコミがはいるかもしれないな。 人間って(っていうか私って)ホントに単純で、(豚もおだてりゃ木にのぼる)で、先日もある会で、ある俳人男性から、 その方は、結構キツいことをまずわたしに言ってから、「yamaokaさんば、◯◯だね」と言ったのだ。 この◯◯(漢字二文字)は、あまりにも素晴らしい言葉なのでここで明かせば、100人が100人眼をまるくしたあと、大笑いをすると思うので死んでも明かさないが、わたしはこの◯◯にヤラレテしまい、その後の一週間くらいは道を歩きながらショーウインドウに映った自分の姿を見つめては「わたしは◯◯!」って思っていい気持になっていた。一週間後には忘れてしまったけど、このブログを書いていたら思い出したのだった。 ◯◯か、いいなあ。 言っときますけど、ちっとやそっとでは思い浮かばない、はるかなる次元からきた言葉よっ。 ブログを読んでいるあなた、呆れてるでしょ。 では、 心を入れかえて 新刊紹介をします。 四六判ソフトカバー装。170頁。 本句集は、俳人岩淵喜代子(いわぶち・きよこ)さんの第6句集となるものである。 タイトルの「穀象」は、 穀象に或る日母船のやうな影 に拠る。 穀象とは米を食べる虫で、縄文時代から存在してきた生き物です。 知らなければその名を聞いて、体長三ミリしかない虫とは思わないかもしれません。その音律からも、字面からも、昔語りに現れてきそうな生き物が想像されます。 米の害虫だという小さな虫に、穀象と名付けたことこそが俳味であり、俳諧です。それにあやかって句集名を『穀象』としました。 と「あとがき」に書かれている。 「穀象」という小さな虫がここで大きくわたしたちの前に現れた。 栞を寄せているのは、西鶴の研究者の浅沼璞さんと詩人の田中庸介さんのお二人。 浅沼璞さんは、「もう一つの〈陸沈〉――人称の多様性から」と題して、岩淵喜代子さんの俳句を「陸沈」という言葉を通して読み解いていく。「陸沈」とは、「表向きは世間の真中に定住しながら魂の漂泊を続け」る者であり、浅沼さんは、「西鶴こそ陸沈」とその著書で記しておられる。そして、 井原西鶴と岩淵喜代子、二人に通底する〈陸沈〉的な作家性はジャンルを自在に往還し、飽くことを知らない。たとえば連句─その多様な人称性は二人の作句に共通しているとしていいだろう。 と記す。そして人称の多様性(「吾」「他」「自他半」)によって、岩淵喜代子の俳句を鑑賞していく。 「吾」のところのみ紹介する。 人類の吾もひとりやシャワー浴ぶ 筆者とは吾のことなり青瓢 足音を消し猪鍋の座に着けり 着ぶくれて広場の隅に鯨描く 日本語の特質からして「吾」というのは省略可能な人称代名詞である。字数に制限のある俳句においてわざわざ使うには、それなりに覚悟が必要な言葉だ。ここでは「人類の吾」「筆者とは吾」という客観的な自己への視点がそれをなさしめている。〈陸沈〉するものの客観的自覚と換言してもいい。無論その自覚は人称代名詞によらない場合も発揮される。「足音を消し」「着ぶくれて」と自己を客体化しながら、「猪鍋の座」「広場の隅」といった「水無きところ」に作者は〈陸沈〉していく。 詩人の田中庸介さんは、 岩淵さんの句は、突如として極度に美しい。句の姿も大変よいし、その裏にはりついている、澄み切った人生の深さも絶品である。 と素敵な一文からはじまる。さまざまな角度から句を鑑賞されているのだが、いくつか句を紹介したい。 青空の名残のやうな桐の花 水母また骨を探してただよへり さざなみのやうに集まり螢狩 このごろは廊下の隅の竹夫人 踊の輪ときに解かれて海匂ふ 踊手のいつか真顔となりにけり 狐火のために鏡を据ゑにけり 水仙を境界として棲みにけり 本集にはもっと現代俳句らしい、華麗でテクニカルなことばのアクロバットのような句もたくさん収録されており、さすがと思わせられるものも多かった。だが、管見で選ばせていただいた作者の「真顔」の句と思われるものは、おおむねこのような感じのところであった。 石段の次も石段有無日 本句集の二番目の句である。季語は何?って一瞬思ったが、「有無日」しか考えられない。はじめて知った季語。「ありなしび」と読み、夏の季語である。 陰暦五月二五日。康保四年(967)に没した第62代村上天皇の忌日。平安時代には、この日は政務を執り行わないことが慣例となった。ただし、急事があれば行ったため、政務の有無が定まっていないことからこの名がある。(深沢了子) 角川俳句大歳時記による。 「有無日」。面白い謂である。政務じゃないけど、仕事においてはわたしなど毎日「有無日」である。って、ちょっと違うか。 しかし、こういう季語を大胆に使ってみせるということが岩淵喜代子さんの力量である。 ほかに、 ぬきん出て烏柄杓は影のごとし 三伏や影に表裏の無かりけり 順番に泉の水を握りたる 天道虫見てゐるうちは飛ばぬなり みしみしと夕顔の花ひらきけり 夏霞から歩み来てメニュー置く 海のやうな川を見てゐる地蔵盆 子午線を乗り越えてゆく藪からし 何の実か火種のごとく透けてゐる 冬桜遠くの方が明るかり どこからか冬至南瓜を出してきぬ くらやみのごとき猟夫とすれちがふ 紅梅を青年として立たしめる 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 「穀象」のカットはなかなかないのだが、面白いのを見つけ出してくれた。 へえー、穀象ってこういう虫だったのかって。 本の色は、岩淵さんのご希望の色。 そしてわたしの好きな色でもある。 フランスの伝統色で、「ブルゴーニュ」と名付けられた色。 名前を聞けばますますうっとり。 タイトルは銀の箔押し。 表紙もおなじく、ブルゴーニュ。 見返しは銀色。 扉。 「穀象」という隊長3㎜の虫に確たる存在感をあたえた句集である。 夕焼けに染まりゐるとは知らざりし 炬燵から行方不明となりにけり 麦踏みのつづきのやうに消えにけり 面白い句だと思った。著者のこの世界に存在する心許なさのようなものがわたしには感じられるのだ。いま、ここにいることの手応えのない不確かさ、それは我でもあり、また他者でもあり、その関係でもある。その生の浮薄さのようなものに対して著者は、そんなものなのねってとジタバタすることもなく、すんなり受け入れている。集中「水母また骨を探してただよへり」という句があるが、この水母はあるいは著者自身ではないか、とわたしは思う。また、ちょっと、こじつけになってしまうが、二句目におかれた「有無日」という季語を思いかえす。「有無(ありなし)」つまり、有って無いという生の実感。著者が東京生まれであることを思うといっそうそれを思う。自身が立つところの大地を喪失している。しかし、これはわたしが岩淵喜代子さんの俳句から勝手に読み解いたものだ。 今日はお一人お客さまがいらっしゃった。 草場白岬さん。 横浜から句稿をもってのご来社である。 少し前からメールなどでお問い合わせをいただいていたのだが、句稿が揃ったとお電話があった。 俳句歴はとても長く、60年になられるという。 楸邨門下の方々にふれて俳句を始められたということであるが、その後いくつかの結社を経て、現在は4つほどの俳句の会を指導されておられる。 今度の句集は第3句集となるということ。 ちょっとお顔が赤いのは、ご友人とふらんす堂の近くで一杯聞こし召したご様子。 (実はそのご友人がお迎えにいらっしゃってお二人で楽しそうにお帰りになられたのだった。) ご友人も赤い顔をされていたのだった。 わたしはお二人の楽しそうな後ろ姿を見送って、思わず「いいわねえ」って。
by fragie777
| 2017-12-07 20:27
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