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11月7日(火) 立冬 旧暦9月19日
お昼を買いに出かけたときの空。 雲がまるで天使が舞っているようだなあ…… って、ひとしきり見上げる。 そんな空を見上げるホンの一瞬に幸せを感じちゃうなんてことありません? わたしは簡単な人間だから、そうなのかな。 お昼はクイーンズ伊勢丹で「パストラビーフとマリネのドッグサンド」(380円)とタカナシ牛乳の「コクっとミルク」のカフェオーレ(147円)を購入。締めて569円(消費税42円)のお昼である。 ドッグサンドだけでなくもう一品欲しいところであるが、ここをぐっと我慢するのよ。 そうするとどうにか体重を維持できる。 痩せはしないけどさ。 一日のうち、わたしは炭水化物は基本昼に摂るようにしている。 パンかご飯粒を。 夜はできるだけ炭水化物は摂取しないのである。 それだって今朝体重計に乗ったら500グラム増えていた。 ゲゲゲッツ である。 嗚呼、 何を食べても太らなかったあの若さ、が恨めしい。 20代30代の諸君、今のうちよ。 なんでも食べられるのは。 「百句シリーズ」の茨木和生著『右城暮石の百句』が出来上がってくる。 ![]() 俳人・右城暮石(うしろ・ぼせき)の全作品より茨木和生氏が100句を選び、鑑賞をしたものである。 以下、右城暮石(1899~1995)について少し紹介したい。(『現代俳句大辞典』三省堂刊より) 《略歴》1899(明32)年、高知県本山生まれ。父鶴寿、母富衛の次男。本名、斎(いつき)。1918(大7)年、大阪電灯会社(限、関西電力)に入社。1920年、大阪朝日新聞社楼上会で松瀬青々を知り、青々主宰誌「倦鳥(けんちょう)」に入会。1935年頃には、古屋秀雄、細見綾子とともに青々門下の「若手三羽烏」と呼ばれた。1946年、俳誌「青垣」(長谷川素逝主宰)「風」同人。1947年から平畑静塔、西東三鬼、橋本多佳子らと、奈良で日吉館会を持った。1949年「風」同人を辞し、「天狼」同人となる。1952年、会報誌「筺(かたみ)」を発刊。1956年「筺」を改題、「運河」を創刊、主宰。1964年、「天狼」同人対象の第5回スバル賞を受賞。1971年、第2句集『上下』等の業績により、静塔とともに第5回蛇笏賞を受賞。1990年、「運河」主宰を茨木和生に譲り、名誉主宰。1992年4月、高知県の生地に帰郷。 《作風》「青々の『自然讃仰』の立場を大切にし、「自然のほかに何がありますか」と絶えず、自然の持つ秘密に触れることに努め、自然の拡がりをとらえた。小動物を扱った句が多く、人間のおかしみに通うものを見た。「俳は到るところなし」を求め続けた。(茨木和生) 本文よりいくつか紹介したい。 炎天を来て大阪に紛れ込む 『上下』(昭和三十四年作) 故郷の高知県から出てきた暮石は十九歳で大阪電灯会社(現在の関西電力株式会社)に入社して大阪に住むようになる。僕の原点は大阪だよとことあるごとにいっていたと思い出す。暑い大阪も苦にならなかったともよくいっていた。どこという特定の場所をいうのではない。師の松瀬靑々との思い出も大阪にはたくさんある。 最初の妻を若くして失ったのも大阪である。女学校五年生のときに亡くなったその妻のことも思い出していたかも知れない。今は二人の妻を両脇に置いて眠っている。 いつからの一匹なるや水馬 『上下』(昭和四十四年作) この句について暮石は僕の残したい一句だと私に語ったことがあった。先生が藤本安騎生さんの車で、京都洛西の私の家にこられたとき、乞うてこの一句を料紙に揮毫して戴いた。額装して長らく自室に飾っていたが、奈良県吉野郡東吉野村のたかすみ文庫で「蛇笏賞受賞作家展」が企画されたときに村に寄贈した。青山高原に吟行されたときの句だと聞いたことがあるが、仲間からはぐれた水馬である。「いつからの」は同時に「いつまでの」につながるつもりだと暮石は語っていた。 妻の遺品ならざるはなし春星も 『虻峠』(昭和五十三年作) 先生が平らな地に家を建てて転居されたのは前年の早春である。そして半年も経ないで奥様が癌だと分かり、入院手術された。奥様は「運河のために句会は休まないでね」といい続けられた。「風花や失語の妻の眼が宙に」という暮石の句があるが、こんな状態の妻を病室に置いて句会に出られた。書家だった房子夫人の書き残した紙は堆かった。「すこしづつ焚火に入れて遺品焼く」という句があるが、焚火をしながら仰いだ空に出ていた春星も暮石には妻の遺品だと思われたに違いない。 蠑螈浮く宇宙泳ぎをするもゐて 『一芸』(昭和六十一年作) 先生はテレビではニュース番組と大相撲を欠かすことなく見ておられた。おたまじゃくしやいもりのいる池を見つけて置いては安騎生さんは吟行の場として先生を案内しておられた。このとき私もご一緒していたと思うが、種池としては使われていない、農家の池での詠である。「和生君、どう思う。宇宙飛行士みたいな動きやないの」といって、満足気だった。テレビを見ていてもそこから言葉を得ようとする、貪欲さを見習わなければと思った。 右城暮石が本格的に作句をしようと心を決めたのは大正十三年、二十五歳の時である。この年の「倦鳥」六月号以降は毎号松瀬靑々選の「倦鳥俳句」に入選することになる。「サラリーマン生活の停滞を払い、月給取りの停滞を払い、月給取りの生活以外に生きた生活を持つ、そのために俳句を作る」という思いを固めた。(巻末の茨城和生「右城暮石を語る」より) 本著を読み終えたとき、右城暮石という俳人の小動物を愛するユーモラスにして飾らない人間性が見えてくるのである。 師と弟子のあたたかな交流が心に残る一書である。
by fragie777
| 2017-11-07 19:15
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