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10月10日(火) 旧暦8月21日
露草。 別名、螢草。 嬉しいお知らせがひとつ。 横浜俳話会という横浜在住の俳人たちによる交流の会がある。 昭和31年に大野林火、古澤太穂、小林康治などによってはじめられたもので、すでに62年の歴史をもつものである。 平成10年に横浜俳話会大賞が設立されて今年は第20回となる。 その第20回横浜俳話大賞に 大木あまり句集『遊星』が決まった。 今日大木あまりさんより教えていただいた。 「気持のよい俳人の方々のあつまりで、みな手弁当で頑張っておられるのよ。わたしは慎んでお受けすることにしたの」と大木あまりさん。こういうところがとても大木あまりさんらしくて、わたしは好き。 大木あまりさま。 この度の横浜俳話会大賞のご受賞、まことにおめでとうございます。 心よりお祝いを申し上げます。 この賞については、「ふらんす堂通信155号」で特集をしたいと思っている。 新刊句集を紹介したい。 四六判ソフトカバー装クーターバインディング製本。178頁 2句組 著者の大西朋さんは、昭和47年(1972)年生まれ、茨城県つくば市在住。平成17年(2005)に宇佐美魚目に師事、平成18年(2006)「晨」入会、平成22年「鷹」入会、小川軽舟に師事、平成28年(2016)第4回星野立子新人賞受賞、現在「晨」同人、「鷹」同人。本句集は第1句集となる。序文を小川軽舟主宰が寄せている。 小川軽舟主宰は、大西朋さんの俳句を評して「ソプラノリコーダーの響き」のようであると言う。「素直で快く」「ヴィブラートのかからないまっすぐ向かってくる音」であると。 紅玉を甘く煮てゐる午後となり 座敷より眺めてをりぬ水の春 冬たんぽぽ三十年で町古ぶ 身仕度のものの五分や桃の花 蘭鋳やみづうみ見ゆる通し土間 田の上の風はつめたし蚊喰鳥 汝が置きし手袋雨の匂ひせり 行列の先に湯気立つ小春かな 江ノ電のワイパー小さし卯波見ゆ かはほりのきゆつと縮みし眼かな 朋さんの俳句の言葉はソプラノリコーダーの音のように素直だと冒頭に書いた。ふと思い当たって、あらためて校正刷に目を通してみたのだけれど、間違いない、朋さんの俳句には比喩が一つもないのである。そればかりか、朋さんの俳句の言葉は寓意や暗喩といったニュアンスを帯びることが一切ない。あるものを表す言葉は、そのものを表す以外に何ものも表わさない。だからヴィブラートのかからないリコーダーの音のように、言葉がまっすぐ向かってくるのだ。 片白草魚に声のなかりけり 朋さんがこの句集の表題に選んだ一句である。魚に声がないということは誰でも思いつくだろう。朋さんの姿勢はここに片白草を配したことに表れている。水面に映る片白草の影と音もなく身を翻す魚の群。半夏生ではなく片白草の呼び名を選んだことも効果的だ。「魚に声のなかりけり」という観念的になりそうなフレーズが、あくまで水辺の風景の描写に徹して書き留められている。そうでないとリコーダーの音は聞こえてこない。 詩人は暗喩の技巧を凝らして言葉に幾層もの奥行きを持たせることに腐心するものだ。それを徹底的に排除してなお詩たりうるのは俳句という形式だけなのではないか。朋さんの俳句の一見古風な印象は、実は俳句の本質を突き詰めるひたむきな実験に裏打ちされているのである。朋さんの俳句の核心に気付くことができて、親しい仲間ながら畏敬の念を新たにしたところだ。 大西朋という俳人の本質に迫った序文だと思う。 こう序文に書かれて、わたしも比喩が用いられていないということを知った。これは、知らずしてそうなったのではなく、大西朋さんの、ものに直裁に向き合うという姿勢をつらぬく結果であり、「俳句性」ということにストイックなまでにこだわっている故なのだろうと思う。読みすすめていくと、著者はあえて詩情というものを排して、あるいはそこに凭れないように作句しているのではないか、そう思われてくる。 しやぼん玉半分零しながら吹く 睫毛まで砂粒つけし水着の子 汗ひいてゆく眠たさのありにけり ブロンズの乳房を伝ふ秋の雨 滝浴びの山の子の歯のまつしろく 家々に牛乳置かれ稲の花 塵取に小石のまじる小春かな ブリューゲルの卵走りし厄日かな 非常口耿々とあり神の留守 ボール蹴れば空気の音す雲の峰 まなぶたのうすきふくらみ蛙の子 蟻曳いて行く長きものあふらるる 芋虫の前進雨を弾きつつ 秋の蝶石のくぼみの水に来る 口開けて石橋渡る鴉の子 爛壊(らんえ)なき虫の骸や桐一葉 へうたんのくびれに影のなかりけり 生きてゐるうちもつめたき海鼠かな 腰掛けてみてあたたかな日と思ふ 目の前の景を小さく切りとって俳句にするのだがどれも物質のリアルな手触りがある。ほんの小さな一瞬であってもそこに現実の厚みがあるのだ。物質の重さと言ってもいいのかもしれない。 丼で食券押さへ麦の秋 このリアリズムはどうだろう。こういう光景は目にすることがあるが、よもや俳句に仕立てるとは。しかし、俳句だからこそ言えることだ。「麦の秋」の季語が、さらに食欲をそそるようだ。 交番の畳二畳や日脚伸ぶ これも少なからず驚いた。交番の畳が二畳であるとは。そしてそこに目をつけるとは心憎いまでだ。「二畳の畳」にも日脚は伸びていく。交番という現実空間の畳に伸びていく日脚。余情さえも感じる一句だ。 俳句生活十二年。畑生活九年。今年家の畑に初めて雉の親子が現れた。雉の雄は度々見かけていたが、雌を見かけたのは一度きりであった。親子は畑の小松菜やレタスを啄み、畝を飛び越える。驚かさないように家の中から双眼鏡で確認すると、雛は四羽のようである。我が家には内にも外にも猫がいて、野や土竜を捕まえてくる。雉の雛も捕まえないかそれだけが気がかりである。春は雉や鶯の鳴き声で目覚め、夏は蟬の声に頭がジンとなる。秋は夕暮れから虫の声、冬の朝は霜柱を踏んでの出勤、夜は筑波颪が吹き付け寒さが身に応える。俳句のために始めた暮らしである。あらためて大切にしていきたいと思う。 「あとがき」である。俳句で詠まれたあらゆるものに現実の裏付けがあることに気づかされる。「俳句のために始めた暮らし」と書かれているが、大西朋さんにとって、「俳句」とはここに書かれていることから出発するものなのだろう。 装釘は、和兎さん。 シンプルなもので、白と緑を使って欲しいというのが大西朋さんのご希望だった。 カバーには和紙風のものをというのもご希望のひとつ。 帯は光沢のあるものにカラー印刷をしてみた。 これは和兎さんの試み。 帯をとったところ。 見返しをグリーンに。 表紙。 カバーと表紙は同じものを用いた。 扉。 クータ-バインディング製本。 このグリーンがテーマ色である。 処女句集らしい仕上がりの白を美しくみせる一冊となった。 座敷より眺めてをりぬ水の春 ものの輪郭がはっきりとした作品が多いなかで、どちらかというと景がひろがっていく、あるいは景に取り込まれていくような一句だ。下五の「水の春」が面白い。座敷より眺めているのがそれだというのだ。春になって凍りついていた河川や湖がいっせいに解け出す。水が音をたてて流れていく。その季節そのものが「水の春」である。具体的なものを示さず、その水の春と表現したことで作者自身もその四時の循環のなかにいて、春の訪れを喜んでいることが伝わってくる。 今週は祝日があったり、ほかにもふらんす堂の行事が予定されている。 すこし慌ただしい週となりそうである。 今日は「ふらんす堂通信154」の校正の手伝いに愛さんが来てくれた。 書店で働いている愛さんによると、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの本の問い合わせが急増して大変ということだった。 わたしは何冊か読んで持っているが、どこに置いてあるのか、整理できないyamaokaであるので、きっとどこかにある。 映画『日の名残り』も上質ないい映画だった。
by fragie777
| 2017-10-10 21:21
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