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9月15日(金) 旧暦7月25日
ご近所の石榴。 なぜかどれもグロテスクなさまをしているのが気に入った。 っていうか、石榴ってこんなものか。 朝、でかける段になって、わたしの右手は鍵を探し出した。 いつも掛けてあるところにもない。 わたしの右手はしばらくわが家の空間を鍵をもとめてさまよった。 (いったいどこに鍵は……) ふと目を移したら、 左手にあった。 と、今に始まったことじゃない。 新刊紹介をしたい。 著者の丸田麻保子(まるた・まほこ)さんは、1969年の東京生まれ、本詩集は第1詩集となる。 詩人の福間健二さん、暁方ミセイさんのお二人が栞を寄せている。 装画の絵は、詩人の新井豊美さんによるもの。丸田麻保子さんは、新井豊美さんに詩を学んで来られた方である。 丸田さんのご希望で、今回の詩集のために新井豊美さんの作品をご遺族の方よりお借りして使わせてもらったのだ。 本詩集は、全体を四つのパートに分けてある。「1その場所で」「2縦のままで」「3姉に」「4手のひらを空に向けて」。 それぞれ、ちがう表情と起伏を味わうことができると思う。作品が合わさってパートをつくり、パートが合わさって詩集をつくる。それが無理なくできている。静かなトーンの持続とそのなかのヴァラエティー。そこに息づいているものにいつまでも触れていたい気持ちにさせる詩集だ。(福間健二、栞「夢の詩」より) まずは表題となった作品を紹介したい。 あかるい時間に 雨が降っていただろうか。通りをあるいていただろうか。 店のなかにいたか。書棚の前に立っていたか。なにか手 にとっていただろうか。なぜ本は積み重ねられるのだろ う、と思っていたかいなかったか。 ページのなかから聞こえてきたのは波音だろうか。古い 石畳に響く靴音か。子どもたちの笑い声か。そうではな くて、ちいさな島に吹き渡る春の風だったか。 わたしは部屋にいたのかもしれない。窓もカーテンも閉 めたまま、雨音を聞いていたのかもしれない。一歩も外 に出なかった。本すら開かないで、暗くなるのを待って いた。そうだったのかもしれない。 濡れた歩道を照らす車のライト。大通りが光の川に変わ る瞬間の空気の傾き。バス停からはじまるながい傘の列。 ほんの雨宿りのつもりだった。それから毎日のように通 うようになって、書棚にあるか確認した。ながめるだけ。 なにか言おうとするかのようにふっと口元をゆるめては 見上げるだけ。背表紙はすっかり日焼けしており、文字 もかすれている。文字がにじんで溶けだしてしまえばい いと思ったろうか。 ほかのひとの目に留まりませんようにと、その場所に 立っては、いつも別の本を見ているふりをした。いつ だってどこかでは雨が降っている。そのことを思い出さ せるような青白い空気が、店には漂っていた。 ほんとうは、書棚に伸ばされる腕を見ていたかっただけ なのかもしれない。濡れたままの袖が見たかったのかも しれない。本の順番を諳んじてしまうほどその場所に 立った。ときどきは、出口ちかくの一冊を買い、胸に抱 くようにして店を出た。 もう外も、すっかり暗くなったのだと、部屋のなかにい るのだと思っていた。見えないけれど耳で決めてこれは 雨だと思う。乗りこんだ覚えのない船のなかにいつしか 自分はいて、足下がおおきく揺れだすとは、そんな夜が あるとはだれも教えてくれなかった。 いいえ、船ですらなかった。夜にもなっていなかった。 雨も降っていなかった。まだあかるい時間に、部屋もか らだも激しく揺さぶられていた。窓の外の景色がどんど ん変わっていった。自分は夢のなかにいて、見慣れた風 景に水がなだれこんできた。そう思っていたかったが、 水はこんなにも現実だ。誰の顔も思い浮かべなかったが、 空には星が瞬いていた。 夢の詩が多い。(略) 夢の詩。丸田麻保子のそれのユニークさは明らかである。作品「水を運ぶ」の手が「ゆびを固くあわせて/こぼさないように」運ぶ水。その水のように運ばれる言葉で書かれていると思わせる一方で、ときには夢の枠を破ってくる力にも果敢に出会う。「自分は夢のなかにいて、見慣れた風景に水がなだれこんできた。そう思っていたかったが、水はこんなにも現実だ。誰の顔も思い浮かべなかったが、空には星が瞬いていた。」という表題作「あかるい時間に」の終結部。すばらしい。(福間健二、栞「夢の詩」より) 暁方ミセイさんの栞のタイトルは「狭間のあかるい風」。 丸田の詩には、常に鏡合わせの「向こう」(「川面から」)が存在し、それは一応死者たちの属する過去の世界だが、死もまた植物のように育っている。『あかるい時間に』というタイトルの「あか」は、なるほど、光の満ちる明るさだけではなく、空く、開く、という語も連想させ、この詩集を読む者の頬を「向こう」からの微風が撫でていくような錯覚さえ与える。(暁方ミセイ、栞「狭閒のあかるい風」より) 「死もまた植物のように育っている」あるいは「読む者の頬を『向こう』からの微風が撫でていくような錯覚」には深く頷く。 担当のPさんの好きな詩は「餃子物語」。 餃子物語 あたしは餃子が きらい 変な形だから きらい 中になにが入っているのかわからないから きらい 千切りにされた髪の毛とか爪とか入っていそうで きらい 鉄鍋餃子なんて あつあつの餃子を出すふりをした ウエイトレスに いきなり鍋で殴られそうで 次の日からあたしは 鉄鍋型の顔になってしまいそうで こわい こんなにあれこれ言うと 家に帰ったら ドアにたくさんの餃子がはりついて じょじょーっとあたしをにらんでいそう もう餃子を悪く言うのはやめます 今日からあたしは 餃子を好きになりました 餃子は野菜と動物性蛋白と炭水化物から成っていて とても栄養のバランスがいいです にら、きゃべつ、ひき肉に飽きたら 白玉やあずきを入れて チョコレートでコーティングするなど アレンジも自由です あたしの唇も だんだん餃子めいてきました 皮にはりが出てきました 匂いもしてきました 日に日に餃子っぽくなってきたあたしは 肉や野菜じゃなくて 大切なものを包みたいと思うのです なのに大切なものがわからなくて 中はまだからっぽのままです 実はずっと前から 自分がしがない餃子であることには気づいていました 生まれたときから one of themでした チチハハはあたしを高く売ろうと くず肉をめいっぱい詰め込みました 具が大きすぎたばっかりに 食べた人の喉を詰まらせては吐き出され ならばいっそと喉にへばりついたら 隔離拘禁されて 具を切除されました 中はまだからっぽのままです 真珠はもってないけれど お皿にとってもらえるなら あなたがひどくがっかりしないように せめてその時には おみくじを入れておくようにします 小さな文字で あしたの降水確率を 書いておきます あたしは餃子が好き 本句集の装丁は和兎さん。 丸田麻保子さんのこだわりを十全に活かした装丁となった。 新井豊美さんによるエッチング作品。 タイトルは「鏡あるいは窓」 詩集名は白箔。 白のタイトルは著者の希望である。 すこし目立たないのであるが背のタイトルも白箔に。 扉。 本文。 栞は真紅の色で。 どうしても赤を用いたかったと和兎さん。 最初はもっと目の覚めるような赤の栞が出来て来たのだが、文章が読めずに断念。 あたらしく刷り直したのがこちら。 「あかるい時間に」という言葉が背後にもつ陰翳の深さをおもわせる詩集である。 この詩集に詩人の小笠原鳥類さんが、感想をくださったので紹介したい。 丸田麻保子さんの詩集『あかるい時間に』が届きました。 送ってくださってありがとうございました。 「その場所で」という詩が、何度読んでも全然わからなくて(私だけなのかな)、 「トオク ちいさく 在るもの。 夜。と夜あけ。そっと くるむように 仄 あかるむ ただそのように、したのだろう。そのとき みずみずしいだろう」 ぼんやりしていて、何度も読んで脳の変身を楽しむだろうと思います。 それから、「餃子物語」という詩が、 餃子についてあまり深く考えてなかったので新鮮でした。 「こんなにあれこれ言うと 家に帰ったら ドアにたくさんの餃子がはりついて じょじょーっとあたしをにらんでいそう もう餃子を悪く言うのはやめます」 清らかな麗しい声で歌われているようで、 読んでいて私も、もっと優しくなれるのではないかと思いました。 わたしも餃子がこんな風に一篇の現代詩になるなんてちょっと驚き。 餃子にとっても面目躍如(?)のことかもしれない。
by fragie777
| 2017-09-15 19:11
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