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9月5日(火) 旧暦7月15日
露草。 車を車検に出すことになり、昨日車をディラーさんが引き取りに来た。 そして、代車を用意して鍵だけ置いていったのだった。 わたしは夜遅くまで仕事をして、駐車場に向かったのだが、着いてみるとなんとも大きな車が代車として置かれている。しかもどうやら最新式のものらしい。 (うわあ、弱った。これを運転して行けってか。。。) もともと運転は苦手でありうまくない。 運転席に乗り込んだのはいいが、どうやってスタートをさせたらいいのかわからん。 鍵をさしこむところなんてないのだ。 15分ほど悪戦苦闘していろいろと試み、とうとう家族に電話して助けをもとめた。 それから四苦八苦することおよそ20分、どうにかスタートをかけてノロノロと発車した。 対向車来るなよ!って念じながら、15分ほどを運転して(対向車が来なかった!)家の前まで来たときにまた難問がふりかかった。なんとわたしの家の駐車場は狭いのである。こんなデッカイ車を駐車させたことなんてない。 その後は。。。。。。 口ではとても言えない悪夢の惨状となったのである。 嗚呼。。。。 でも言えない。。。 今日も新刊紹介をしたい。 四六判小口折表紙装クーターバインディング。 212頁 著者の小野あらた(おの・あらた)さんは、1993年(平成5年)埼玉県生まれ、開成中学時代より俳句をはじめ、2010年石田波郷新人賞受賞、2011年「銀化」(中原道夫主宰)入会、同年「玉藻」(星野髙士主宰)入会、2013年「群青」(佐藤郁良・櫂未知子代表)の発起に参加。本句集は第1句集である。ふらんす堂において平成生まれの俳人の句集を刊行するのは始めてである。今年24歳となる。 序文を佐藤郁良先生、跋文を櫂未知子先生、装丁を中原道夫先生、帯文を星野高士先生と、信じられないほど豪華なメンバーに、この句集のためにご協力頂きました。誠にありがとうございます。 と「あとがき」にあるように教えを乞う方々の心と力をいただき、祝福されての句集出版となった。 序文を寄せられた佐藤郁良さん、跋文を寄せられた櫂未知子さん、おふたりが口を揃えていうことは、小野あらたの「愚直」である。正確に言えば、その「愚直」ゆえの「非凡」ということ。あしてまたトリビアリズムに徹しながらも、単なる瑣末主義に陥ることのない天性の美質だ。 しぼませて浮輪の紐の長きかな 弁当の醬油の余る小春かな おしぼりが夏柑の香になつてをり 梅の無きところ反りをり梅莚 葛餅の蜜の届かぬ角三つ 小野あらたの持ち味と言えば、何と言ってもそのトリビアリズムであろう。 ただ事と言ってしまえば元も子もないが、対象を本当によく見ているものだと感心させられる。そして誰もが、こういうことってあるよな、と思わず膝を打ってしまうに違いない。(略) 小野あらた、この稀有な俳人を、私は自信を持って世に送り出したい。あらたは今でも決して器用な男ではない。だからこそ、彼は一途に俳句に取り組んできた。器用に振る舞う若者が少なくない中で、あらたの愚直さは、私の最も愛するところである。そして、あらたの作品にも、同様の真率さ、飾らないよろしさを感ずるのである。 佐藤郁良さんの序文より抜粋。 絵も文字も下手な看板海の家 ただ今思えば、この著者にしてはずいぶんスケールの大きな句である。何と言っても「看板」だから。でも、この句は何度読んでもいい。全くお金のかかっていないちゃちな「海の家」と、一応は頑張ろうかとしている臨時雇いの働き手の姿などが見えてきて、断然いい。「まがいもの系」なのに色褪せないという、その矛盾した味わいは、どうにもぱっとしない海の家を目にするたびに人々が思い出すことだろう。 こちらは櫂未知子さんの跋文より。 一部の抜粋にとどめたがお二人の小野あらたさんへの言葉は、この若き俳人に対しての心底から発せられたエールである。おふたりの熱量が伝わってくる文章である。 そして、「玉藻」の星野高士主宰もまた、あたたかな帯文を寄せている。 彼にしか見えないもの彼にしか興味の湧かないもの、しかし一旦作品になってしまうとその世界は人を覆い尽くすくらい魅力的だ。 帯文を抜粋して紹介。 本句集の担当は、Pさんである。たくさんの好きな句を教えてもらったがそれも抜粋して紹介したい。 かたつむり殻傾いてをりにけり 雨止みて蝉一匹の遠きかな 水筒の暗き麦茶を流しけり かき混ぜて起伏大きく茸飯 大根煮る背中まだまだ怒りをり 家々の陽を浴びて来し寒雀 柿若葉軍手に移る釘の錆 食べるのが早くて暇で暮の秋 松手入雲乗せやすき形かな 熱燗を酌み悪口は詩の如し 葉の影の匂ひ立ちたる柏餅 革靴で浜に来てをり月見草 蟻の列蟻の骸を避けにけり 冬ぬくし注ぐと動く紙コップ いかのぼり糸の消えたる高さかな 割箸を祭の端に捨てにけり 襟巻の両側が尾でありにけり 鯉幟屋根に四隅のありにけり 食べるのが早くて暇で暮の秋 この句、よくわかる。実はわたしは食べるのがとても早い。自分では早く食べているつもりはないんだけど、一緒に食事をした人から一様に驚かれる。食べるのは早いってなんだかがっついているみたいであまり上品じゃないでしょう。だからいやなんだけど、しかも健康にもよくないって聞いているので、もっとゆっくり食べようって心掛けるんだけど駄目。美味しそうな食べ物を見ちゃうともう一目散である。この句「暇で」で笑った。暇ってあえて思ったことないけど、そう確かにまだみんなが食べているのを見ているとそりゃ、暇だわ。「暮の秋」という季語がどこかノンシャランとして小野あらたさんってなかなか人をくった人だわなんて思ってしまうけど、きっと本人は大真面目。なんか大物感がある。 多くの方々に支えて頂き、私の俳句はあります。中でも四人の先生方にこうして気に掛けて頂けていることの幸せを嚙み締めております。 「あとがき」の言葉である。 あとがきの言葉も数行であるがちゃんと礼を尽くしている。 なかなかの若者だ。 小野あらたさんにとって、「若さ」はあまり意味がないように思える。そして自分をつまびらかに語ることもあまり意味がない。自身の自意識に付き合わせようなどとは金輪際思わない。それよりはわたしたちにとっての共通項(目にみえるかたちの)を俳句という定型によって構築していく。その技量がある俳人なのだ。そして俳句への信頼を作品を通して感じるから読者を疲れさせないのだ。 年齢を超えたクールな俳人である。 深見けん二先生をして「おそろしい俳人」と言わしめた一端が分かったような気がする。 本句集の装丁は、「銀化」主宰の中原道夫さん。 小野あらたさんのためにいろいろと意匠を凝らされた。 シンプルではあるが、堂々とした一冊となった。 扉。 クーターの部分はオレンジ。 扉と同じ色である。 集名の「毫」は、広辞苑によると「①細い毛」②「きわめてわずかなこと」とある。しかし、「ごう」という読みの響きが、なんとも「ゆるぎない」ものを思わせる。 この句集『毫』にびったりだと思う。 枝豆や靴の大きな客一人 好きな一句である。 シンプルで気持のよい句である。 ほんと、好きだわ。こういう句。。。。。 ちょっと高野素十のようかなあ。 最近、泡盛に目覚めてしまった。 シークヮーサーを搾り入れて飲み始めたら癖になってしまって。 「瑞泉」という泡盛を飲み終え、いま「久米仙」というのを飲んでいる。 私的に言えば、「瑞泉」が癖がなくておいしい。 先日、友人たちにあって、そのことを言ったら、「瑞泉」を飲んでいる人が多いので驚いた。 泡盛って度数がすごく高いのですって。 そういうことも知らずに太平楽に飲んでいるyamaokaである。
by fragie777
| 2017-09-05 20:39
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