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7月31日(月) 旧暦6月9日
木槿の花。 朝起きて、硝子戸を開けたら蝉の鳴き声が聞こえた。 今年始めて聞く朝の蝉の声だ。 蝉の鳴き声を聞くと、晩夏、あるいは夏の果ということばが頭をよぎる。 7月も今日でおしまいになり、明日からは8月である。 8月は物の影が濃くなり、死者たちを身近に感じる季節である。 あるいは黒い天使が耳元にきてふっと腐った息を吹きかけてくることもある。 夏の闇に足を掬われぬよう、心して過ごしたい。 新刊紹介をしたい。 四六判フランス装。204頁 著者の城倉吉野(じょうくら・よしの)さんは、東京生まれであるが大学入学まで信州伊那で過ごされた。2000年より連句をはじめられ「連句教会の会員」である。2006年より「ミントの会」(大木あまり代表)に参加し俳句を始められる。本句集は、前句集『風の形』(2010年刊)につぐ第2句集である。師である大木あまりさんが、「風の手紙」と題して跋文を寄せられている。 大木あまりさんの跋文からでもわかるように、城倉吉野さんは、句集『風の形』の上梓後に娘さんを病気で失った。「この娘さんの死後、吉野さんの生活は一変する。遺児である幼いお孫さんの世話と、実母の遠距離介護が始まったのだ。家族に素材を求めた句が多く見られるようになる。」と大木あまりさんは書く。 子の声の永き不在や千鳥草 止んでいた風がまた吹いてきたようで心が騒ぐ。悲しい句なのになぜ惹かれるのだろう。「子の声の永き不在」とは? 吉野さんはどんな気持ちで詠まれたのだろうか? 疑問はすぐに解けた。第一句集『風の形』から六年が経っている。その間、最愛の娘さんを亡くされた。「永き不在」とは娘さんの死を暗示しているのだ。母親の心情が別名、飛燕草ともいわれる美しい花、千鳥草に込められている。 この句の優れたところは、死を表さずに死を感じさせる巧みさにある。品格と作者の詩精神を感じる。(略) 雪暗や牛舎に牛のほのぬくく 雪の夕暮れ、ほの暗い牛舎の牛たちが寒さに耐えながら春を待っている。その牛たちの生命力と忍耐強さを「ほのぬくく」と感知する鋭敏さと独自の把握に注目した。 本集は、娘さんの死や家族、故郷への思いを物の手触りと実感を大切に詠んでいる。そこが特徴である。そして、最大の特徴はこの牛の句が示すように、人間や小動物や鳥などの生きものの命を優しく素のままに詠んでいるところだ。吉野俳句の世界は深くて広い。作者は娘さんの死を通して命の輝きを伝えたかったのではないだろうか。(略) 六年前、娘さんが亡くなったとき吉野さんに手紙を書いた。だが出さなかった。友人として力になれない自分が情けなかったからだ。そのことを気にしながら月日だけが過ぎていった。歳月流るる如しである。このたび、読者の誰よりも早く句集を読む機会に恵まれた。その一句一句に癒され励まされ、涼風のような手紙を貰った心地がした。 『風成』は読むほどに吉野さんの懐の深さと心を感じる句集である。 大木あまりさんの城倉さんへの思いがひしひしと伝わってくる跋文である。 本句集は文己さんが担当。 健やかに腹の空く子や桑の花 生死みな春光の中米洗ふ 日の映るところに蝌蚪や午後深き 暮るるまで菜の花色の中に居る 父と子と夕涼の空飛行船 少しだけ甘えんばうで柏餅 蛍袋どの道行けば着くだらう 木苺を見付けて午後の終りとす 時々は目の合ふ金魚をかなしめり 対岸のあなたも雨や夏燕 大夕焼呼び戻したき人のある 土の粒放さず蟻の走りけり 文己さんの好きな句を紹介した。 大夕焼呼び戻したき人のある 「呼び戻したき人」とは、すでに永久に帰らぬ人でも、あるいはいまここにいない生きている人でもいいのだが、その人ははるか彼方の存在であり、きっと呼び戻すことが叶わぬ、そんな人なんだと思う。なぜ、そう思わせるかと思うとそれは「大夕焼」の季語ゆえに、と思う。「夕焼」は夏の季語であるが、夏の季節はこの夕焼けがいっそうに美しく荘厳である。自然のなさるわざであるが、まるで神の恩寵であるかのようにわたしたちを包みこむ神々しい光であるかのようだ。ふと、大夕焼けの荘厳に身をゆだねながら、その向こうに神の存在を、あるいは夕焼けの向こうに呼び戻したい人がいそうな気配を感じたのだ。「夕焼」ではなく「大夕焼」という自身と夕焼との間の一切の夾雑物をゆるさない、圧倒するようなスケールのものでなくてはならないのだ。 振り返れば第一句集『風の形』から既に六年程が経ちました。 この六年の間にも世界は大きく変動し、人々の願う平和の世はますます遠く、人間の尊厳という当たり前の大切な言葉も次第に影薄くなってゆくようで、日々心沈む思いが致します。 自分自身にも、この間大変辛い出来事がありました。一人だけの娘を失くし、高齢の母の遠距離介護も始まって、収めようもなく心の混乱が続きました。そのような時、休まず俳句を作るという厳しく豊かな営みに、どれほど励まされたかしれません。 師としていつも温かく的確なご指導を賜った大木あまり先生、そして、俳句や連句の先達、句友の皆様から、数々の優しい励ましのお言葉を頂いて、ようやくこの程、第二句集『風成』を纏めようと思えるようになりました。改めまして深く、心から感謝申し上げます。 これを機会に、次のステップに向け、少しでも新しい一歩が踏み出せればと願っています。 「あとがき」のことばである。 城倉吉野さんの日々の闘いは、考えただけでも大変である。くれぐれもお身体を大切なされていただきたい。 本句集の装丁は、君嶋真理子さん。 前句集『風の形』と同じように、フランス装を希望された。 写真だとグラシン(薄紙)のためすこしぼけてしまうのが残念だが、ひさしぶりのグラシン巻きのフランス装である。 清潔な句集が出来上がった。 「風成」とは、広辞苑をひくと「風の作用でできること」とあり、「風成岩」「風生層」などが挙げられており、いずれも長い時間を要するものである。著者の城倉吉野さんにとって「風成」とは、前句集刊行以後の状況のすさまじい変化の中で日々を懸命に風のように生きてこられた今日までの時間であり、これよりを刻んでいこうとする歳月の日々をも意味しておられるのだろう。風は目にはみえない。しかし、風の通ったあとには風が記した形が出来上がる。句集『風成』は、城倉吉野さんの日々がつくりあげた「風成」なのである。 夜の川の音無く流れ梅ひらく この暗さがなぜか不気味である。しかし心惹かれる一句である。夜の川だけでも心許ないのに、「音無く」で深淵が増した。梅は本来は春の訪れを祝福するかのように清潔に咲くものだが、この「梅ひらく」は少し違う。多分白梅だろうと思うが、その白さに一瞬たじろぎ、黄泉よりの使者が笑ったかのようにややぞっとする、、、ちょっと飛躍しすぎか。。。「梅ひらく」が、梅には似合わない幽玄の美しさを秘めているようにわたしには思えるのだ。音無き夜の川とは、あるいは、現実の川ではなくて、死者が流れていく黄泉の川か、、、こんな風に思いがどんどん冥界へと引っ張られてしまうのは、やはり8月が近い所為か。イカン、もっと健全に鑑賞しなくては。
by fragie777
| 2017-07-31 21:06
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