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7月30日(日) 旧暦6月8日
7月最後の日曜日をわたしは友人を誘って映画を見た。 岩波ホールで上映している「静かなる情熱 エミリ・ディキンソン」である。 生前わずか10篇の詩を発表し、無名のまま生涯を終え、没後発見された1800篇近い作品により”アメリカ文学史上の奇跡”と讃えられる女性詩人エミリ・ディキンソン。全世界に熱狂的なファンを持つディキンソンの生涯を、20篇近い詩を織り交ぜ描く伝記的作品。 とチラシにある。 岩波ホールの上映予告で知ったときから絶対見ようと心に決めていた。わたしは森山さんの「祈る詩」を通してはじめてエミリ・ディキンソンの詩を知ったのであるが、先日手元に届いた「現代詩手帖8月号」では、「エミリ・ディキンソン Emily Dkickinson」の特集だ。 エミリ・ディキンソンの詩の翻訳を手がけた新倉俊一さんのインタビューはじめ、吉増剛造さんは「エミリー film」と題して詩を寄せ、ほかにエミリ・ディキンソンの詩についての論考やエッセイ、詩の作品などがあり充実した特集である。研究者や詩人たちのエミリ・ディキンソンへのオマージュとも呼んでもいいかもしれない。 映画「静かなる情熱 エミリ・ディキンソン」については、二時間余の長い映画だったが飽きさせることなくエミリ・ディキンソンの気高さ、孤独、受け入れがたさ、喪失、怒り、などがよく描かれていたと思う。最初の出だしのショットも気に入ったし、映像も美しかった。 その生涯のほとんどを家の中で過ごし、夜中の三時から夜明けまでを詩を書くことに費やしたエミリ・ディキンソンという女性。 表現することの意味とはいったい何なのか、すんなりと解答を見いだすことはむつかしいかもしれないけれど、この女性詩人の魂にすこしだけ近づくことができる映画かもしれない。 エミリ・ディキンソンの詩ついては、岩波文庫や思潮社から詩集が刊行されているし、また、森山恵さんの「祈る詩」を通してもその数編に触れることができるので、ここでは、数行のみ。 これは世界にあてたわたしの手紙です。 わたしに一度も手紙をくれたことのない世界へのーー やさしい威厳をもって 自然が語った簡単な便りですーー この詩に対して、詩人の暁方ミセイさんが語っていることが印象的だった。 その部分だけ引用したい。 彼女の言う「自然」が、けして動植物の世界だけのことではないのは明らかだと思う。それは距離の範囲としては宇宙の果てまでをも指すし、対象としては、被造物や人間、それに自分自身の心の有様だって含んでいる。 実は、わたしはこの一篇を、宮沢賢治の「たゞたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身のとほりで/ある程度まではみんなに共通いたします」という『春と修羅』の「序」の詩の一節とともに、詩作の指標にしてきた。一人の人間が感じうる世界を、できるだけ本当に書こうとするならば、その態度は作風の違う詩人同士でもどこか似通ってくるのかもしれない。 ひきこもることによって、エミリ・ディキンソンは自分という宇宙のドアを開けていた。考えてみれば社会的な成功をおさめ、ともすればそれに浮かれたりすることで閉ざすドアのまた無数にある。だから、やっぱりディキンソンをひきこもりというのはおかしいのだけれど、いまひきこもっている若者たちの中にだってこの確かさのないおっかない世の中で自分が何者か必死に見極めようとしている人がたくさんいるはずだから、なんだか少しだけ、少なくとも詩人たちの未来には、「希望の小鳥」のさえずりが聞こえているような気だってする。(「現代詩手帖」8月号「わたしは見ることが好きーー宇宙のドアを開けて」より) 映画を観たあとは、友人と神蔵器(かみくら・うつわ)先生について思い出を語って、神蔵先生を偲んだのだった。 友人は、しばらくの間、神蔵器主宰の「風土」で俳句を学んでいたのだった。 でで虫や戸袋に戸の蔵はるる 器 鯉を見に行く稲妻の滅多打ち 〃 友人の好きな二句である。
by fragie777
| 2017-07-30 23:54
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