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7月27日(木) 旧暦6月5日
鬼百合。 朝起きてみると雨だった。 涼しい朝をむかえた。 昨夜から降り続いているらしく、夜中に何度か目覚めてタオルケットを掛け直した記憶がある。 木曜の朝はいつも「大地の会」のお兄さんが注文の品を運んできてくれる。 ここ数ヶ月わたしが決まって注文するものに「河内晩柑」がある。 グレープフルーツを小振りにしたような大きさで、味は文旦を濃くしたような甘さ。 瑞瑞しく、あっさりしてるけど香りがいい。 「大地の会」の河内晩柑は見た目は色もそれほどきれいでなく不格好、粒も不揃いだ。 しかしジューシーな甘さは最高である。 柑橘類のなかで一番すきかもしれない。 それを洗って、蔕のところを水平に切って、十字に包丁の切り込みをいれて仕事場に一個持ってくる。 お昼を食べるときに、それを半分にして、文己さんに渡す。 ひとりでは食べきれない分、柑橘類大好きの文己さんにいつも手伝ってもらうのである。 今日も持ってきて、半分こして食べた。 「yamaokaさん、ご馳走さまでした。美味しかったです」って必ず文己さんは言ってくれる。 その笑顔が極上で、河内晩柑の美味しさと張り合うほどである。 句集『音符』を上梓された金子敦さんが、新聞記事を送ってくださった。 7月20日付けの北國新聞の「詩歌に親しむ」の覧で、歌人の喜多昭夫(歌誌「つばさ」主宰)さんが、句集『音符』より一句とりあげて鑑賞をしておられる。 タイトルは「息は生きる証し」 噴水の息吸ふごとく止まりけり 金子 敦 噴水は夏の風物詩のひとつ。暑い日が続くと、噴水を見るだけで、ほっとする人が多いのではないだろうか。自然と噴水のまわりに人が集まる。 この句は、夕方の景。ごくろうさん-。そんな感じでコックが締められたのだ。噴水が止まるその一瞬を見事に捉えている。 なんといっても「息吸ふごとく」という比喩が秀逸である。まるで生きているもののように噴水が描かれている。噴水の最後の一息とでもいうように-。 この句から河野裕子の絶唱を想起した。 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が 河野裕子 (『絶唱』) 息が足りなくて、あなたに触れることができない。生命の終わりが、静かに哀切に歌われていて、胸を突かれる。 息はこの世の生きる証し。金子敦は噴水の日々の営みに自らを重ね合わせたのだろう。生命を見つめた秀吟である。 わたしたちって通常、普通に息をしているじゃないですか。 でも、ふっとある時、息を吸う、息を吐く、そういう行為が目の前に立ちはだかる。そんな思いがしたことありません。 息を吸うわたしがいて、息を吐くわたしがいる、それがうまくできなければわたしが壊れていってしまうような、恐怖感。 過去のいくつかの場面が思い起こされる。 そう、小さかった時の方がそういうことが多かったかもしれない。 お雛さまがかざってある部屋にひとりで寝かされていた時のこと。 息苦しくて息苦して、眠れない。 真っ暗な部屋でお雛さま立ちが全部の空気を吸ってしまって、わたしには吸う空気が残されていない、苦しかった。 小さなわたしはその時に確信したのだ。 お雛さまはぜったい息をしているって。 嘘だと思うのなら、お雛さまの飾ってある部屋で寝てごらんなさいましよ。 でも重々お気をつけあそばせ。
by fragie777
| 2017-07-27 19:08
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