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7月19日(水) 旧暦閏5月26日
むらさきかたばみ。 目下「ふらんす堂通信153」の校了を目指している。 詩人・吉増剛造の「蕪村心読」も13回目となった。 わたしはR眼鏡をかけたその上に「神だのみ」ならぬ「亀だのみ」と呼ぶところのルーペを通して、ゲラの校正をしたのだった。 この「蕪村心読」は、早々にたやすくは読ませてくれない。 一つ一つの文字を確認しながら、それが意味するところのものを頭の中で切り結んでいくのであるが、まずは小さな小さなカタカナで書かれているため、それを拾うように読むと声の音が耳に入って来る。それは念仏のような響きでもって、身体に打ちこんでくるような不思議な音の振動である。そのあとに漢字と平仮名の組み合わせによるそのカタカナの一節が反復されてカタカナがどんな意味をもっていたかが明らかにされる。 読むという行為を通して、わたしの脳細胞の組織が組み替えられていくような、化学変化をきたすような、なんともこれは吉増剛造マジックである。 しかし、面白い。 今回も面白いことが囁かれている。 (俳句の奥底には(庭)、この「ひらがな」を、壊滅させようとする力が、間断なく、働いているのだと、私は解しました……。 詩人の世界が堪能できる贅沢な紙面である。 今回はいろいろな賞の受賞特集である。 詩歌文学館賞、加藤郁乎賞、千葉県俳句大賞奨励賞、田中裕明賞、の四つである。 それぞれの受賞者が、俳句と俳句観を寄せている。 どれもその俳人の顔が伺いしれて面白いが、なかでも田中裕明賞を受賞された小津夜景さんの「俳句観」は興味ふかい。 小津夜景さんは、これまでの誰ともちがうベクトルをもって俳句というものを新鮮に語ってみせてくれている。 小津夜景の受賞によって「田中裕明賞」はいや俳句の世界は、さらに新しい光を放つことになった、そんな思いもしている。 そして髙柳克弘さんの「現代俳句ノート」の飯田龍太論が傑出している。 わたしは少なからず昂奮をしながら読んだ。 やはりこれまで誰も語らなかった「龍太論」である。 龍太のいわゆる有名句をまったく新しい視点からアクセスし、そこに龍太のしたたかな「戦略」を浮かび上がらせるというものだ。 これは必読である。 ほかにも読みごたえのあるものが目白押しである。 「すごい充実してるじゃん!」 とわたしは思わず叫んでしまった。 「そうですよ」と、Pさん。 小さな冊子であるが、スタッフ一丸となって編集に頑張っております。 余談であるが、「編集室より」というのを書いているのだが、どうも書きすぎのキライがあるということに気がついた。 というのは、今回は窓から見えた黐(もち)の木について、延々と書いているのである。 伐られてしまった黐の木への思いが強すぎて、「ありゃ、わたしこんなに書いている。」と言ったら「お気づきですか」と返された。 気づいていたのなら、早く言ってくれればいいのに。もう! 机を高くして、校正の仕事をする文己さん。 上下する机をわたしたちは便利に使っています。
by fragie777
| 2017-07-19 19:42
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