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7月11日(火) 旧暦閏5月18日
オランダ、ザーンダムのホテルの受付カウンターにあった黒電話。 機能はしないがいぶし銀の光をはなってオブジェとして存在。 今日は燃えるゴミの収集日である。 わたしはでっかい袋をもって二階から一階までの屑籠のゴミを撤収するのだ。 ついでに猫たちのトイレの掃除をしてその排出物も回収するのである。 トイレの砂をかき回し、お宝をみつけそれを猫用シャベルで、こう、ポイッと紙袋にいれて撤収する。 家中のゴミをかき集めて外にあるポリバケツにいれるとわたしの仕事は完了する。 今朝もその手順で動いたはずだ。 それが、どうしたことだろう。 今朝、出かける前になって、ふっと気づいたのである。 私はいったいゴミ集めを完了したのだろうか。。。。 集めはした、しかし、生ゴミまで集めたか、あるいはポリバケツに入れただろうか。 あれ? いったい、わたしは。。 暗黒が立ちはだかった。 不安な思いで、台所の手前まで来たとき、なんとどうしたことか。 ゴミ袋が大口を開けてわたしを笑っているではないか。 が~~ん! わたしはどうやら猫のトイレの始末までで、ゴミ収集作業を放棄してしまっていたらしい。 幸いなことに収集車はまだ来ていない。 わたしは生ゴミを放り入れ段取りの最終段階を完成させた。 そして、ころげるように裏口から出てポリバケツに投げ込んだのだった。 今までこんなことはなかったのに。。。 少なからずショックを受けた私は、朝のミーティングのときに一部始終を話し、 「もう、ヤバイのよね。わたし……」と言ったところ、 「あははは、大丈夫ですよ。yamaokaさん、今に始まったことじゃありませんから。。。」 スタッフたち全員に一笑に付されたのだった。 まったくもってシッケイな。。。 (しかし、わたしもいずれこの黒電話にような存在になるであろうか。ふらんす堂にただいるだけのオブジェ。しかもこの黒電話のようにいぶし銀の光を放つことができるだろうか。いや、いさせてもらえなくなるかもしれない、、、嗚呼) 気をとりなおして、新聞掲載記事を紹介したい。 すこしまえの6月20日づけの愛媛新聞では、土肥あき子さんが「季のうた」で 渡辺紀子句集『銀の櫂』より一句とりあげて下さった。 夏至近し砂場にジャングルジムの影 渡辺紀子 ジャングルジムとはパイプを組み上げて作られた立方体の遊具。縦横に張り巡らせたパイプがジャングルジムに見えることからその名が付いた。遊具から伸びる影が短いことで、夏至が近いことを感じる。隣り合う砂場に収まる整然とした格子状の影は、ジャングルというより方眼紙に近く、目の前に広がる枡目によって夏至という太陽と地球の仕組みが今にも映し出されるかのように思われる。「夏日(なつび)」同人。 昨日の朝日新聞の「風信」で、 北大路翼句集『時の瘡蓋』が紹介されている。 一匹でゐるのは酔うてゐる螢 北大路翼 第2句集。歌舞伎町の「屍(しかばね)派」家元の作者は30代最後の年に。写真と散文も効果的。 今日の讀賣新聞の「詩とことば」にて阿部公彦(まさひこ)さんが 小笠原眞詩集『父の配慮』をとりあげている。抜粋して紹介したい。 留学生が多い授業で、俳句を作らせたことがある。季語を教え、あとは五七五のリズム。そこそこ形はできる。ただ、その先で微妙な違いが出た。たとえば、「小川には/笑顔の子供/楽しそう」と「桜散り/舞う花弁が/風になる」。どちらも日常風景だが、おそらく後者に「俳句らしさ」を感じる人が多いだろう。多少なりと日常の見え方をずらしている。 詩の特質は散文=日常性に対しての「非日常性」と言われる。もちろん、日常があってこその非日常。現代詩も日常のごく近くで、そこからこぼれたり、陰に見えたりする異物をとらえてきた。小笠原眞の『父の配慮』(ふらんす堂)に描かれるのは耳鼻咽喉科の職務風景。青年の鼻から腫瘍ををひっぱり出す。 ソウーッと腫瘍を挟み ゆっくりと動かすと 果たせるかな コトリと まるで偶然知恵の輪が外れたように 腫瘍が鋳型から外れて 「(天を仰ぐ」) 身を乗り出しつつものめり込まない。日常性と小さな驚きが拮抗する。詩人の目だ。 ふらんす堂は目下「ふらんす堂通信」編集期間中である。 今日は助っ人愛さんが来てくれて朝から校正をしている。 今日のおやつに、わたしは桃のゼリーをみんなにふるまったのだった。 (ふっふっふ、いぶし銀の光を放つためさ。。。。。)
by fragie777
| 2017-07-11 19:42
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