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7月10日(月) 浅草四万六千日 旧暦閏5月17日
今日は、浅草四万六千日の日である。鬼灯市でもある。 昨年、わたしは友人たちとこの鬼灯市にはじめて行ったのであるが、いやはや凄い人混みだった。 これは昨年の鬼灯市の写真である。 四万六千日人混みにまぎれねば 石田郷子 この石田郷子さんの句について、総合誌「俳句」七月号で井上弘美さんが「名句発掘」の連載において名鑑賞をしておられる。タイトルは「俳句の物語性」。この句の箇所のみ抜粋して紹介したい。 句集『草の王』 の冒頭に置かれた作品である。この句は作者にとって、人生の節目になった大切な作品なのだが、そのことについて作者は一言も語っていない。句集を読むと〈濡れてゆく鬼灯市の人影も〉〈まみえけり青水無月のなきがらに〉〈寝冷えせし手足を伸ばす父亡き朝〉と続くので、父の死をテーマとする一連の作品であることがわかる。掲出句は、父の死の序章として置かれた一句なのである。父上は俳人石田勝彦氏である。 冒頭の句が詠まれたのは、平成十六年七月九日、「四万六千日」の日だった。「四万六千日」は「鬼灯市」の傍題である。七月九日、十日は観音菩薩の結縁日であることから、この日浅草寺に参詣すると四万六千日の功徳があることされるのである。この二日間は境内でほおずき市が開かれることもあって、終日多くの参詣人で賑わう。 当日は片山由美子氏のお誘いで、浅草で吟行句会が行われた。女性俳人が数名集ったのだが、郷子さんは仕事の都合で遅れて参加された。そして、句会に提出されたのがこの句だったのである。「人混みにまぎれねば」という思いは、状況から考えれば遅参によるもので、この雑踏に早くまぎれ込まなければ俳句を詠むことが出来ない。ということだと思える。しかし、この作品はそのような事情を超えて、雑踏にまぎれなければ生き得ない悲しみや、敢えてまぎれようとする覚悟のようなものを思わせる。句末の「ねば」の効果である。「ねば」は「ねばらなぬ」の「ならぬ」を省略したことで強い意志の表明になった。自己を集団の中に埋没させねば生き得ないことを、自分自身に言い聞かせているような痛々しさが感じられた。 ところが全くの偶然だが、その直後に父上危篤の連絡が入ったのである。郷子さんは大急ぎで病院へ駆けつけたが、その夜、お父上は亡くなられた。郷子さんは、まさしく父亡きあとの「人混みにまぎれねば」ならなくなったのである。「四万六千日」が観音の功徳をもたらす日であるだけに悲嘆を深い。まるで予兆のように詠まれた、生涯の一句だったのである。 鬼灯鉢売れたるあとを吊りにけり 石田勝彦 「俳句」七月号には、柳本々々さんによる 田島健一句集『ただならぬぽ』の書評が載っている。タイトルは「鶫と永遠」。こちらも抜粋して紹介したい。 鶫がいる永遠にバス来ないかも 「鶫がいる」という季語の存在の認知が「永遠にバス来ないかも」に接続されていく。ここには、〈季語=鶫〉を通した〈現実=バス〉への届きがたさがある。「鶫」を通して私たちは〈永遠に来ない(かも知れない)バス〉を触知する。 (略) 田島健一の俳句は〈私〉が〈生きる現実〉に直接触れてくる。それは、ただならない。〈ただならぬ現実〉は永遠にたどりつけないからこそ、追い抜き追い抜かれつついつまでも「ぽ」と輝き続ける。その光にとことん付き合う。それが『ただならぬぽ』だ。 ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ この『ただならぬぽ』については、目下編集中の「ふらんす堂通信」153号にて詩人の杉本徹さんが評しておられる。 詩人の目からみた『ただならぬぽ』評。 これもまた、一読に値するものである。 新聞紹介記事があるのだが、それは明日。 なぜならわたしが家からその記事を持ってくるのを忘れてしまったのだ。。。 これからツタヤに寄ってから帰る。 四本も延滞してしまって、仙川ツタヤ店から、昨夜二度も連絡を貰ったのだ。 今朝返却ボックスに四本投げ込んで、あとでお金を払いにいくつもりだったのだが、すでに自宅に「お金を払ってください」という容赦ない電話をふたたび貰ってしまったらしい。 昨夜、言ったじゃありませんか、今日ともかく返してお金をあとで払いに行きますって。 全然わたしの気持が伝わってない。。。 ともかく行ってお金を払わなくては。 じゃ。
by fragie777
| 2017-07-10 19:59
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