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7月9日(日) 旧暦閏5月16日
少し前に行った上野東京都美術館の「ブリューゲル バベルの塔展」 で買い求めた絵はがきのうち2葉を額装にしてみた。 ブリューゲルの絵に登場する奇っ怪にして可愛らしい架空の生き物たちである。 額とともに可愛いでしょ。 実はわが家のトイレの壁にかざってある。 このトイレにはすでにイタリアルネッサンスの画家ロッソ・フィオレンティーノの「奏楽の天使」の額が飾ってあって、トイレに入ると背中はイタリアルネッサンス、左壁は16世紀オランダ画家、という按配である。しかも21世紀に生きている日本人のおばさんは狭いトイレをさらに小さな美術館にしようかと思案中である。気に入った絵に囲まれて用を足すなんて(し、失礼)、ささやかな幸せである。そしてここに飾る絵は、描かれた絵画の一部分にして、きわめてトリビアルな部分ということにしようかなあと思っているのである。それも小さく額装されたものに限る。 いつか充実した空間になったら、いらっしゃいませよ。 お招きしますわよ。 でも、 トイレに限らせてくださいまし。 俳句に於いて「写生」はあくまで手段である。言葉によって事物を説明すること自体、すでに抽象化の作業であるから、虚子の言う「客観写生」は、じつはとても難しいのだ。。しかし、人にとって最も確かな五感を介して得られる情報に出来るだけ忠実な表現を基本とすれば、より正確に内容が伝えられるであろう。季語はそのために働いている。 写生の訓練を重ねてゆくことにより、あるとき不意に詩の表現になっていたりするが、いったいどういうレベルになれば詩に高まるのかは誰にも分からない。出来た作品を閲したときに詩か否かが初めて判るということだ。もしも最初から計画したとおりに、あるいは意図したままに作品が出来るようになったら、俳句はその時点で終焉を迎える他はない。 元より、焼物なら焼いてみなければ判らず、俳句なら作ってみなければ判らないということであろう。(瀧澤和治) (俳誌「今」2017年夏号「会員作品評」)より。 ふっと目にとまったので紹介してみた。 俳誌「舞」(山西雅子主宰)夏季特別号では、大木あまり句集『遊星』が特集されている。若手俳人の小川楓子さんが、『遊星』における「蝶」を主題として書評をされている。一部を紹介したい。 タイトルは「蝶々の星」。 大木あまりの第六句集『遊星』では、蝶や蛾をモチーフにした作品が頻出する。ギリシャ語で魂や精神を表すると共に、蝶の意味もあるというプシュケー(Psyche)。夫に忍び寄り怒りを買ったり、冥府の箱を開けて昏睡するなどの試練を経て幸せを掴む。好奇心が引き寄せる困難に打ち勝つプシュケーは、いたずらっ子のように目を輝かせ、凜としながらも、風に飛ばされそうに華奢な体躯の大木を彷彿させる。そう、もしかしたら彼女はプシュケー、蝶なのかもしれない。それでは『遊星』に集められた蝶や蛾の作品から、大木あまりの世界を読み解いてゆきたい。 として、小川楓子さんは、大木あまりの「蝶」の作品を読み解きながら、大木あまりという複雑な陰翳をもった俳人の心奥に分け入っていくのである。 連れ歩くならば地味なる夏の蝶 青き蛾の夜な夜なきたる網戸かな 去りし蝶また戻りくる氷水 冬の蝶玻璃に来ぬかと口笛を 鬼灯の花こぼしたる蝶の足 長き葉に蝶たれ下がる泉かな 火蛾くはへ猫歩きをる夜風かな 蝶の羽つまんで放つ墓参かな 蝶のごと生くるは難し火を使ふ ふつきれて白き蝶追ふ芭蕉林 (略) 大木は、蝶の世界に様々な夢想を呼び寄せつつも、ときに夢想から抜け出し、眼前の蝶をあざやかに提示する。様々な性質の蝶が随所に鏤められた『遊星』という一冊を開けば、いずれかの蝶がふわりと読者の傍らを抜けて、大木の世界へと誘ってくれるのではないだろうか。その蝶は大木あまり自身からもしれない。 蝶の日と呼びたきほどに蝶多し 『遊星』を評するに、「蝶」というテーマに絞ったのがとても面白いと思った。 そういえば、大木あまりさんの句集にはいろいろな蝶が登場する。 ざっと拾ってみると、 白線をはみ出す我も初蝶も 『火のいろに』 雷蝶の身を立て直す泉かな 『雲の塔』 夏の蝶かげろふものを置き去りに 〃 秋蝶や波が吐きだす海女の桶 〃 食卓のくもりひろごる蝶の昼 〃 蝶ひとつ目まぐるしくて涼しくて 『星涼』 夏の蝶折れさうに足曲げてをり 〃 伝言は凍蝶のこと猫のこと 〃 水を吸ふ凍蝶に紋ありにけり 〃 蝶よりもしづかに針を使ひをり 〃 私の拾いそこないかもしれないが、第一句集『山の夢』には、蝶の句は一句もなかった。 こうして拾ってみると、「蝶」の俳句が句集を上梓するごとに多くなっているのがわかる。 『遊星』はもっとも多い。 「蝶」に着眼し大木あまり論を展開された小川楓子さんは、大木あまりという俳人がひそかに蝶と化しつつあることを見抜いているのかもしれない。 蝶よりもしづかに針を使ひをり 蝶の句のなかで、もっとも好きな一句である。
by fragie777
| 2017-07-09 22:09
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