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7月6日(木) 旧暦閏5月13日
オランダ・アムステルダムにある海鮮料理専門のレストラン「Lucius」。 旅立つ前に友人から、ここは絶対行った方がいい、という情報をもらい、探し当てたのだった。 オランダ名物の生鰊などがあり、どれも非常に美味かった。 白ワインによく合う。 店は混んでいて、活気にあふれ、サービスも行き届いていた。 日本人好みの味でもある。しかし、旅行客よりも地元の人たちに人気がある様子だった。 アムステルダムに行かれたら、ここはおすすめである。 中央駅からそう遠くないというのもいい。 さて、 ふらんす堂もいろいろな俳誌をご寄贈いただいているが、その俳誌から記事をいくつか紹介したい。 まず、俳誌「鴻」(増成栗人主宰)7月号より。 平山雄一氏が「ON THE STREET」という連載で、「田中裕明賞」を受賞した小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』 についてとりあげておられる。2頁にわたるものなので、抜粋して紹介したい。 小津夜景は、南仏在住の女流作家。昨年、上梓して話題になった第一句集『フラワーズ・カンフー』が、今年の第八回田中裕明賞を受賞した。おめでとうございます。 第七回受賞作はこの連載でも紹介した北大路翼の『天使の涎』、第六回は鴇田智哉の『凧と円柱』、第三回は関悦史の『六十億本の回転する曲がつた棒』など、この賞は個性的な作家を世に出すことに多大な貢献をしている。 (略) あさがほのかたちで空を支へあふ 鳴る胸に触れたら雲雀なのでした アルバムに日付のなくてあたたかし スプーンを舐めて高きに上るかな 小津ならではの、瑞瑞しい句群だ。(略) こうした開放的な句は、小津が俳句を”自分個人のもの”にしているところから生まれている。他からとやかく言われる筋合いはないと、言わんばかりの自由さがある。すべてが成功作とは思わないが、突出した個性は自由な句作りから発生していることは間違いない。 一方で僕は、『フラワース・カンフー』収録句の七割が理解できなかった。句の意味が分からなかったり、形式が不可解だったりした。たとえば〈八田木枯句の主題による短歌〉で成る「こころに鳥が」の章や、文語表記によるエッセイに俳句を挟み込んだ「天蓋に埋もれる家」の章は、良さが全然わからなかった。 しかしそれらは小津にとって、この句集を構成するにあたってどうしても必要な章であったらしい。北大路が一見乱暴そうに見えて、実はエンターテインメントを考えた句集作りをしているのに対して、小津はエンターテインメントをほとんど意識していない。それは小津の表現者としての一つの特性にもなっている。 また、あとがきに気になる文章があった。 「出アバラヤ記」が攝津幸彦賞の準賞となったのを機に俳句を始めてから途方もなく長い二年半が経過した。この間しばしば思い出したのは「前衛であるとは死んだものが何であるかを知っているということ、そして後衛であるとは死んだものをまだ愛しているということだ」といったロラン・バルトの言葉である。 小津はその自由な作風から”前衛”と思われがちだが、実は”後衛”も試みている。句集の最終ページには次の句があった。 ともづなに蛍をともす夜さりかな くらげみな廃墟とならむ夢のあと 恐ろしく古めかしい句である。そして、これらもみな小津夜景の句なのである。 朧夜がなにもない巣を抱いてゐる ほうと吐き一糸まとはぬ月自身 夜の桃とみれば乙女のされかうべ これらは小津が発見した新しい俳句ファンタジーと言えるものだろう。卵も親鳥もいない巣を抱く「朧夜」は、無事に巣立ちを終えた一組の鳥の家族の歴史を思わせる。 「月」を繭として幻視し、糸を吐きながら「自身」にそれを纏わないという描写は、白く輝く月の裸身を想起させる。「夜の桃」は、坂口安吾の描く奇譚のように、残酷で美しい。 そうして小津は、自分の行っている”言葉遊び”を次の句に集約する。 言の葉に効く毒抜きはいらんかね 小津は、俳句の外側から俳句を作っている。なので、『フラワーズ・カンフー』を読んでいると、「こんな俳句があるんだ」とか、「こんな俳句があってもいい」という思いにしばしば駆られる。すなわち、それが俳句の可能性だ。それを汲み取る田中裕明賞を目指す若手俳人が、今後一段と増えることだろうと。 いまだ目を開かざるもの文字と虹 小津夜景 小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』を丁寧に読まれ、また「田中裕明賞」がこんな風に語られていることにも驚くとともに多いに励まされたのである。 受賞句集が、批評されるということ、これほど嬉しいことはない。 俳句の総合誌や大きなメディアばかりでなく、こうして俳誌においてしっかりと取り組んで貰えるということは、「田中裕明賞」がじわじわと俳句の世界に浸透していっているのではないか、そんな手応えを思ったのである。 時間をかけ、少しずつ少しずつ、「田中裕明賞」の存在意義を理解していって貰えたらと願っている。そのためにわたしたちも努力を惜しまないつもりである。 俳誌「浮野」(落合水尾主宰)七月号では、太田かほり氏の「現代俳句展望」で、「ふらんす堂通信」152号の俳人三人による「七句競詠」がとり上げられている。こちらも約2頁にわたるものである。全部を紹介したいところであるが、抜粋して紹介したい。 「ふらんす堂通信」一五二号より。三者が兼題を出し合い七句競詠するという企画から取り上げる。「直筆拝見」の趣向も面白い。題の一つは十三詣。 コンサイス胸に十三詣かな 後藤比奈夫 姉よりも五つ年下知恵詣 深見けん二 東京じゃ行かぬが十三詣の日 池田澄子 この句に対して太田かほり氏はそれぞれの句に鑑賞をほどこしておられるが、わたしは次の三句の鑑賞を紹介したいと思う。 次に、同企画より三俳人の個性的、実験的な作品をひく。 フエールセーフフールプルーフ四月馬鹿 後藤比奈夫 雨雫又雨雫初桜 深見けん二 先々のことな嘆きそすいーとぴー 池田澄子 後藤比奈夫詠。調べてみると、フエールセーフとは、「故障や誤操作によるトラブルの発生を想定し、致命的な事故や損害につながらないよう設計するという考え方」、フールプルーフとは、「ユーザーが誤った操作をした場合でも故障したり危険な状況にならないように設計するという考え方」をいう由。前者の例として「一定温度以上に達すると温度ヒューズが溶断し、停止するヘアードライヤー」、後者の例として「ドアが開いた状態では加熱できない電子レンジ」が上げられていた。なあんだ、身近なものではないかと、ひとまず合点。作者は物理学の人だからこんな片仮名が出てきても不思議ではないし、エイプリルフールに配合されると至極合点。だが、作者は、これらの装置を過信してはいけないと真面目である。新鮮な題材に驚く。 深見けん二詠。阿波野青畝の「山又山山桜又山桜」、おなじく「さみだれのあまだればかり浮御堂」を思い出す。一方は漢字のみ、一方は平仮名を多用している表記でもよく知られ、人口に膾炙している作品である。前者からは形を借り、後者からはイメージを借り、季語「初桜」を据えて大きな勝負に出た。冒険であり、賭けであり、危うさを承知の上で軽々と俳諧味に遊んだ。桜は蕾の頃から愛でられ、咲けば天気が気にかかり、嵐にでもなれば嘆かれる。まだ、一輪ほどの今年の初めての桜には雨がふさわしく、雨雫が開花を促すようにも、育むようにも思えてくる。あたりをしっとりと潤し、花芽を慈しむように大粒の雫を湛える雫を含んでいよいよ二分咲き、三分咲きへと人々の期待を負って進行していく。そんな開花から満開への短くも楽しみなあわいを作者は十分に堪能されたのだろう。本歌取り、アレンジなどの手法はあの松尾芭蕉も実験している。詩歌の伝統を知り尽くされた上での遊び心、向学心である。 池田澄子詠。洋花の平仮名書きが新鮮である。あのスイートピーがすいーとぴーと表記されると別種のイメージが広がり、一気にこの花のファンになった。というよりスイートピーはすっかり和花に馴染んでいてもともと違和感はなかったようなものである。あの優しい雰囲気、柔らかく明るく蝶が飛び立つような軽やかな華やかさ、それでいて自己主張しない。花言葉は「門出・思い出・別離」などとあるがそれにまつわる憂いなど影ほどもない。影のない花といおうか。この花に古文の用法「な……そ」を取り合わせたところは何とも満点のセンスである。「……してくれるな」という禁止の用法であるが、口語表現では俗になりそうな内容にきっぱりとした感じが加わる。自らに言い聞かせ、気持をスイートピーの明るさに切り替えるような趣がある。 そして今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、『鷹羽狩行俳句集成』より。 曙やあけぼのいろの蓮の花 鷹羽狩行 「曙や」とおいて、ただちに「あけぼのいろの」とアケボノを反復する大胆な技法、これはこの俳人の若い日からの特色だ。ハスがまるで曙の大自然から生まれたように鮮明だ。「鷹羽狩行俳句集成」(ふらんす堂)から引いたが、現在86歳の俳人の句業を収録したのがこの本。「世に遠く咲き世に遠く散り蓮の花」もこの俳人の秀句の一つ。 そうそう、動くテーブルがやって来た! すごーく、楽しみにしていたんだ。 こんな感じ。 どう。。。 高さは、180センチくらいまであがる。 コンセントもつくので、電話やパソコンも置けるのだ。 椅子に座ることにつかれたら、仕事一式を持ってここで立って作業をするつもり。 ちょっといいお値段だったけれど、長い目でみればいい買い物だったんじゃないと思えると思う、きっと。 だから、 出費があったから稼がねばいけないのよ。 仕事くださ~い!! お願い。。。
by fragie777
| 2017-07-06 19:19
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