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5月29日(月) 旧暦5月4日
オランダのDen Haag(デン・ハーグ)にあるマウリッツハイス美術館。 オラニエ家のヨーハン・マウリッツ伯爵の私邸として17世紀に建造された美しい建物を美術館としているもので美術館としては広くはないが、フェルメールやレンブラントの代表的な作品がみられる。 今回は旅の二日目にデルフトからデン・ハーグへと向かった。 さて、すぐる27日には第32回詩歌文学館賞の授賞式があり、俳句部門で受賞された後藤比奈夫句集『白寿』の版元としてスタッフのPさんが出席した。 ご高齢の後藤比奈夫氏にかわって、お孫さんで「諷詠」主宰の和田華凜さんが出席。 比奈夫先生のご挨拶を代読されたのだった。 ご挨拶される「諷詠」主宰の和田華凜氏。 只今ご紹介に与りました、和田華凜と申します。比奈夫の孫で俳詩「諷詠」の四代目の主宰を継承し現在主宰の仕事をさせていただいております。 本日は祖父の比奈夫の代理といたしまして、こちらへ来られたことを大変嬉しく思っております。 それでは比奈夫から預かりしました喜びの言葉を読み上げさせていただきたいと思います。 「ご挨拶 一言、受賞の御礼を申し上げます。本日この豪華盛大な式典に出演叶いませぬこと、誠に残念。心からお詫び申し上げます。実は私、先月満百歳を迎え、数年前より足元覚束なく、その上内臓にも少々の不安がございまして、まったく外出のできない生活を致しております。そんな所へのこの度の受賞は誠に青天の霹靂、一門上げての喜びでございました。受賞いたしました『白寿』は第十四句集、96歳から98歳にかけましての作品を集めましたもの。晩年の作でもあり、私自身、愛おしい句集となっておりました。それをお選び下さいました、大峯あきら、岩岡中正、加藤瑠璃子三先生に深く、深く御礼申し上げます。また、この句集制作に心を砕かれましたふらんす堂社長、山岡喜美子女史にも心から御礼申し上げます。そして最後に北上市に、詩歌文学館に、この賞がありますことを心から讃えたく存じます。ありがとうございました。 後藤比奈夫」 わたしのお名前までお出し下さって、すこぶる恥ずかしいのであるが、比奈夫先生のお気持ちとして有り難くお受けしたいと思っている。その場にいたらさぞやびっくりしていたと思う。 右より来住野恵子(きしの・けいこ)氏(詩部門 詩集『ようこそ』思潮社刊)、波汐國芳(なみしお・くによし)氏(短歌部門 歌集『警鐘』角川文化振興財団)、和田華凜氏(後藤比奈夫氏代理) ご受賞の皆さま おめでとうございました。 心よりお祝いを申し上げます。 なお、句集『白寿』の受賞特集を「ふらんす堂通信153号」でいたす予定であるが、すでに比奈夫先生よりはお原稿をいただいている。 後藤比奈夫先生は、白寿となられてまことに目出度いことであるが、昨年ご子息の後藤立夫氏を亡くされている。「諷詠」主宰としてまさにこれからというときに病に倒れられたのだった。 その立夫氏の遺句集『祇園囃子』(ぎおんばやし)が5月に刊行になった。 「諷詠」を継承した和田華凜さんと久子夫人の心づくしの一冊である。 四六判ハードカバー装 三句組 246頁 著者の後藤立夫(ごとう・たつお)氏は昭和18年(1943)7月14日生まれ、平成28年(2016)年6月26日逝去。享年74歳であった。本句集は平成17年(2005)より平成28年(2016)までの作品を収録。第1句集『見えない風』、第2句集『祭の色』につぐ第3句集であり最後の句集となった。 遺句集になつてしまひぬ秋惜しし 比奈夫 この句集に寄せられた序句である。 頁をひらけば、まず立夫氏の明るい笑顔に出会う。 句集名は「祇園囃子」。 ころはよし祇園囃子に誘はれて 立夫 本句集の最後におかれた辞世の句である。 祭り好きな立夫氏らしい一句だ。 立夫氏は絵を描くことが何よりも好きだったという。亡くなる寸前まで画筆とスケッチブックを手放さなかったと、久子夫人より伺っている。それについては、以前こんなお話を比奈夫先生から伺ったことがある。立夫氏は絵の道に進みたかったでのあるが、比奈夫夫人であるお母さまのご意向に従って芸大をあきらめて東大に進んだということである。生前スケッチブックに描いた絵がたくさん残されており、その中より絵を選んで各章の扉に使うことが、久子夫人をはじめご遺族の強いご希望だった。 父、立夫は小さい頃から美しいものが好きで、絵を描くことが好きだったそうですが、亡くなる日まで絵を描き続けていました。最後の絵は震える手でうさぎのような形を描いたものでした。絵を描くこと即ち写生とは俳句において最も大切なことです。俳句は目に映る全体の景色から自分の心に一番残った部分を選びとり、その景色を言葉で五・七・五に写生する文芸です。写生力の優れている立夫俳句はどの句もこの言葉による写生が自在で、句会ではいつも人が気が付かないことを発見し句に詠み、皆に共感と驚きを与えてくれました。 東京から神戸に戻って六甲アイランドに暮らしはじめた十年ほど前からは母と街を散歩しながら島の風景や花々、猫の絵などをいつも描いていました。立夫にとって俳句と絵は切り離せないもののように感じました。今回の遺句集には故人の希望ということもあり、立夫の絵も入れることにしました。 華凜さんによる「あとがきに代えて」よりの抜粋である。 本句集は12章に年代別に分けられ、その章の扉に立夫氏の絵で飾った。 全部を紹介したいところだが、数枚にとどめる。 どこやらに月の出てゐるやうに踊る 紫のいきなり濃ゆし冬菫 闇と言ふ遥かなものに豆を打つ ひらがなで恋をしてゐる歌留多かな 溜息はこんな色かも桜貝 天瓜粉とは夕方の匂する 薄暑てふ水に映つてをりしもの パリ祭といふ日に生れたる不覚 秋日傘小振りに差して来ましけり 水餅にある水の陰餅の陰 熊手買ひ夜と歩いて帰りけり かまくらにありたる隣近所かな 阿波をどり手足たりないほど踊る 春色のものの音にもありしこと 夏になり臨機応変なりし白 3句組という読みでのある句集であるのだが、すらすらと読み手の心に俳句がかたまりとなって飛びこんでくるような作品が多い。色彩が豊かで、機知に富み、極めて繊細な俳句だ。一読後ふうっと余韻が残る。「人が気が付かないことを発見し句に詠み」と華凜さんが記すように、句友やお弟子さんたちをさぞ驚かせ楽しませたのではないだろうか。驚かせながらも(ああ、そうか)と納得してしまう。 薄暑てふ水に映つてをりしもの 水餅にある水の陰餅の陰 こういう句は画家の眼差しかもしれない。わたしの好きな句である。 夜半、比奈夫という俳人を祖父、父にもつ重圧があるいはおありだったのかもしれないが、そんな堅苦しさを微塵もみせず、自在に句を作られているように思える。文体はやはり父・比奈夫を継承しているが感性がすこし違う。立夫氏はやはり極めて繊細な感覚の持ち主だったのではないだろうかと。 祭りが好きだった父は、平成二十八年六月二十六日 ころはよし祇園囃子に誘はれて 立夫 という辞世の句を残し「もうすぐ死ぬから」と言って天国へ旅立って行きました。諷詠現役主宰のまま、沢山の人から惜しまれながらの旅立ちでした。この世を芭蕉のいう「かるみ」の精神で、虚子のいう「極楽の文学」俳句をもって生き抜き「ころはよし」と言って逝くとは。立夫先生らしい粋な生き様。父として師として心から尊敬しております。 つなぎし手離し祭の中へ消ゆ 華凜 「あとがきに代えて」より。 本句集の装幀は君嶋真理子さん。 第一句集『見えない風』に引き続いての装幀となった。 君嶋さんに心掛けて貰ったことは、遺句集であってもどこか華やかさをとどめてもらいたいということ。 本来なら遺句集であるので、金箔は避けたいところであるが、あえてタイトルを金箔にした。 用紙もダンディでおられた立夫氏にふさわしいモダンなもの。 表紙に関しては、久子夫人より黄色というご希望があった。 黄が好きでばらの黄色はもつと好き 本文にある一句である。この「黄」という言葉を使った俳句はかなり多い。 平は空押し。 栞紐はグレー。 本文に12葉のカラー口絵が入るので、全体の仕上がりの色合いは明るさをとどめながらも落ちついたものになるようにということに心をくだいた。 立夫氏のお心に適うものになっただろうか。 喜びのお顔を見ることができないのが残念である。 久子夫人は、「毎日手にとって眺めています」と出来上がりを喜んでくださり、比奈夫先生は「立夫らしいのができましたね」とおっしゃって下さった。 まもなくお命日が来る。 昨日伺った「河内野」のお祝いの会で、「立夫さんの句集、いいのができましたね」「いま読んでいるところです」そんな反響をずいぶんいただいた。 愛されたお方だったのだと改めて思ったのだった。 蛍の後姿となりて消ゆ 立夫 本日の毎日新聞で文芸ジャーナリストの酒井佐忠さんが、「詩歌の森へ」でこの後藤立夫句集『祇園囃子』をとりあげてくださった。タイトルは「祇園囃子とともに」 〈ころはよし祇園囃子に誘はれて〉。この辞世の句を残して俳誌「諷詠」主宰だった後藤立夫さんは、この世を去った。昨年6月のことである。がんを病み、72歳での逝去。最後の句とはいえ、実に趣きのある一句ではないか。祭好きだった立夫さんにふさわしい。京の町に響き渡る「コンチキチン」の囃子の音とともに俳人は別れを告げる。「ころはよし」が絶妙だ。生と死をみつめる余裕が感じられる。一周忌を前に刊行されて遺句集『祇園囃子』(ふらんす堂)と名付けられたのである。 〈日向ぼこして自画像のやうになる〉〈黄の記憶また新しくミモザ咲き〉〈春色のものの音にもありしこと〉。俳人は絵が好きだった。遺句集には12枚のスケッチが飾られる。絵を描くことは自分を見つめることでもある。俳人は黄色い花が好きだった。ミモザも黄のバラも句と絵に描かれる。そして穏やかな春の訪れは、ものの音でも感じたのである。言葉と絵と心模様が素直に一致する。 後藤夜半から現役最長老の比奈夫さん、さらに立夫さんに引き継がれた「俳句の家」に支えられた「諷詠」主宰は、愛娘の和田華凜さんにバトンが渡された。芭蕉の「かるみ」と高浜虚子の「極楽の文学」の精神を体現する父の教えを、フレッシュな感覚で華凜さんは受け継ぐ。〈つなぎし手離し祭の中へ消ゆ〉(華凜)は決意の句でもある。
by fragie777
| 2017-05-29 21:44
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