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4月3日(月) 旧暦3月7日
わが家に咲いたみつばつつじ。 桜が咲く季節になるとこの花も咲く。 山道などでこの花に出会うとその艶やかさにはっとする。(あはっ、去年もこんなこと言ってたような気がする) この花の蕊には仁丹があるっていつも思う。 「仁丹(じんたん)」ってご存じ。 小さな銀の粒で口臭を予防したのかな、口にいれるとすっとして独特に匂いがあって、いまはもうないかもしれないなあ、子どもの頃口に入れた記憶があるけど。ネットでちょっと調べたら乗り物酔いや胸つかえなどにも効果があったらしい。 この花の蕊の先の銀色がちょうどその「仁丹」を思いださせる。 夕暮れにみると一層幻想的になるみつばつつじである。 新刊句集を紹介したい。 著者の鈴木千惠子さんは、昭和4年(1929)神奈川県生まれ、現在横浜市在住、今年米寿を迎えられる俳人である。昭和63年(1988)に「風」に入会、平成6年(1994)に「風新人賞」を受賞、「風」同人、平成14年(2002)「万象」創刊同人、平成21年(2009)「りいの」創刊同人、平成23年(2011)「万象賞」を受賞しておられる。現在は「りいの」同人である。本句集は前句集『田打舞』に次ぐ第2句集となる。平成16年より平成28年までの作品を収録している。 『余白』は、『田打舞』につづく私の第二句集です。 この句集は、一日一日を大切に過ごしてほしいという家族の思いに背中を押され、編む運びとなったものです。「万象」の故・滝沢伊代次主宰、大坪景章主宰、「りいの」の檜山哲彦主宰の選をもとに、平成十六年より平成二十八年までの作品を自選してまとめました。 「あとがき」の言葉である。 十年をひとりの暮らし紫木蓮 わが余白埋めたし万朶の花仰ぎ ご主人に先立たれ子供たちも独立してひとり暮らしをするようになって10年が経った、その感慨を紫木蓮の花に重ね合わせた。紫色の木蓮の花びらはやや肉厚で白木蓮よりもひっそりして佇まいが奥深い印象だ。紫木蓮の花びらの重なりのさま、10年をひとりで生きてきた女性の時間の積み重ね、ふっと響きあう。 しかし、ひとり暮らしはやはり寂しさを伴うものだ。空白の時間が押し寄せるように迫ることもある。特に桜が咲き満つる頃ともなれば、その思いは一層である。埋めたし「余白」は句集のタイトルともなったものだ。 俳句はその著者の心の余白を埋める大事な日々の証しともなるものだ。 空白の頁に俳句によって著者の生を刻んでいく。生の刻印としての本句集『余白』であるとわたしは思った。 本句集の担当は文己さん。 若い文己さんは、人生のおおいなる先輩としての鈴木千惠子さんのどんな俳句に心を留めたのだろうか。 泡風呂の泡に沈めり小正月 灯台守の十匹の猫うかれをり 鮎の骨すらりと抜くを誉め合へる 蝶と化し菜の花海へとびゆきぬ メロン食ぶ夜もかもめの鳴く町に 馬乳酒を大杯に酌む星月夜 立ちしまま眠れる馬よ冬銀河 阿修羅の前橘の実をポケットに 蛍舟驟雨の岸をはなれたり 檸檬の木けふの揚羽を放ちたり 転覆の漁船そのまま盆休み 「立ちしまま眠れる馬よ冬銀河」は、モンゴルを旅行されたときの句である。著者は日本国内のみならず外国へもいろいろと旅行されているようだ。吟行をし俳句をつくり、充実の日々である。 この十年余の月日には、夫の十三回忌、長年住み慣れた家からの引越し、曾孫の誕生などいろいろなことがありました。一人暮らしの気安さから、月の半分ほどを南熱海で過ごすほか、国内外を問わず多くの地を訪ねることも出来ました。 幼い頃より、俳句が日常に溶け込んでいる環境に居りましたが、本格的に向き合うまでには、それなりの年数を要しました。しかし、気づけばその俳句生活も三十年を超え、母の年齢を倍近く生きて米寿を迎える齢となったことに、只々驚くばかりです。 日々、一句の奥に何を求めるのかを問いながら、ひたすら即物具象の写生を心がけて参りました。この後も、ゆたかな四季の移ろいを感じつつ余白を埋めて行けたら幸いと存じます。 「あとがき」の言葉である。 88歳を迎えられまだまだお元気な鈴木千惠子さんでいらっしゃる。 これからどんな俳句によって、「余白」が埋められていくのか、おおいに楽しみである。 ほかに、 蟷螂の全身枯れてなほ歩む 北斎の墓近く住み蒲団干す 冬の鵙久女の碑文字のびやかに 手を打つて金魚の糶のはじまりぬ 冬に入る坐る人なき椅子ひとつ 長廊下きしきし渡る良夜かな 落栗を兄在るごとく拾ひけり エドモンドと名付けし蜻蛉今日もくる (わが庭に) 一日を竹伐る音の中にをり 水音の身に添ふくらし牡丹の芽 人はみな風と分け入る芒原 オブラートほどの日が差し寒牡丹 盆過ぎの瀬波の白し千曲川 雛納め女三人ピッツァ切る ポストまで回り道してみどりの夜 庭に来る蜻蛉を「エドモンド」と名付けて親しみを感じている著者である。蜻蛉がそんな風に決まって来るということはあるのだろうか、と思うがひとり暮らしの日々にはその訪れがわかるのである。名前が「エドモンド」というのがいい。著者の遊び心を思わせる。これは何に由来するのだろうか。「エドモンド」と聞いて、人がなにを思うかによって、その人の興味と生きてきた時代が少しわかる。わたしは、「ナルニア国物語」のルーシーの弟を思い浮かべたのだが、あれは「エドマンド」だった。(ちょっと根性が悪いのよね、エドマンドは。あとで改心するんだけど)鈴木千惠子さんにとっての「エドモンド」の由来は? ちょっと聞いてみたい。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 上品な薄紫を基調とした一冊となった。 文字を囲むまわりの模様は、銀箔押し。 銀箔がなんとも美しい。 本句集は全部で四章に分かれているが、各章ごとに素敵な絵が挿入されている。 ご長男の奥さまの鈴木久美子さんによるものである。 あたたかなご家族の思いが注がれた句集となった。 「思い通りの出来上がりとなり、とても嬉しいです」と、今日お葉書をいただいたばかりである。 銀箔に美しく縁取られた句集。 冬に入る坐る人なき椅子ひとつ 落栗を兄在るごとく拾ひけり 長生きをすることは素晴らしいことでもあるが、多くの悲しみもそのこころの中に蓄積されていく。 親しい人がすでに非在であることのどうしようもない欠落感、「椅子」はいつも傍らにあったけれど、冬になって人のぬくもりが恋しい季節にはいっそうだ。そして兄を恋う思い、この句、わたしにも兄がいるからかしら、ああ、なんだかととても悲しくなってきた。(わたしの兄さまは元気だけど)「兄在るごとく」落栗を拾う鈴木千惠子さんは、きっと可愛らしい妹に戻っているのだろう。過去の良き思い出へのノスタルジーと亡き兄への思いに充ちた句だ。 悲しくなったところで、お腹が空いてきた。 もう帰ろうと思うのだけど、良いかしら。 では。
by fragie777
| 2017-04-03 20:28
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