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2月27日(月) 旧暦2月2日
指を入れ手を入れにけり春の水 小島 健 今朝は風が冷たく、マフラーを取りに戻ったのであるが、午後にはすっかり春の陽気となってコートなしでも歩けるあたたかさとなった。 昨日の朝のこと、開きっぱなしになっている押し入れの前で猫たちがかわるがわるにじいっと見つめているものがある。 ちょっかいを出すわけでもなく、固まったように見つめている。 何かと思ってみてみると小さな虫だった。 動かない。 死んでいる風でもあるが、なんとなく直感的に生きているんじゃないかと思った。動くと猫がちょっかいを出すので死んだふりをしているらしい。 猫たちが去ったあと、紙にのせて(そうするとジタバタしたのでやはり生きていた)ベランダに放つとすぐに飛んで行ってしまったのだった。 それがこの虫。 調べてみるとどうやら「亀虫」のようである。 臭い匂いを放つようだが、それは免れた。 新聞記事を紹介したい。 25日付けの讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、脇村禎徳句集『而今』より。 仰ぎ見て久しかりけり春の空 脇村禎徳 春の空を眺めていたのだ、夢を見ているかのように。ほんのしばらくのことだったかもしれないが、ふと我に返ってみると、ずっと眺めていた気がする。さらに句にすれば、はるか昔から眺めつづけてきた感じもする。句集『而今(にこん)』から。 25日づけの毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、 鈴木明句集『甕』より。 露出廃炉の深淵暗め冴え返る 鈴木 明 冴え返る時期にむき出しになった原子力発電所の廃炉、その廃炉が人知の及ばない暗い深淵をのぞかせている、という句であろう。季語「冴え返る」は数日前にも取り上げたが、「冴え返る」ことを繰り返しながら春は深まる。その春のようにはいかない廃炉の現実がたしかにある。句集『甕』(ふらんす堂)から。作者は東京在住。 25日付けの東京新聞の佐藤文香さんの「俳句月評」は、「新しい見せ方を」というタイトルである。 小川軽舟さんより引き継いで、担当は佐藤文香さんとなった。 小津夜景句集『フラワーズ・カンフー』が取り上げられているが、この新聞はなかなか目にすることが少ないので全文を紹介したい。 ある俳句作家の作品世界に浸ろうと思ったとき、まず手に取るのは句集だろう。しかし、俳句しか載っていない本というのは、普段俳句を読まない人には意外と敷居が高い。そこで、俳句の間口が広がりそうな近刊を紹介したい。 中村安伸句集『虎の夜食』(邑書林)は、家族であり編集者でもある青嶋ひろのが構成し、短い物語を挿入している。物語の断片では、カフェでいちご白玉を食べていたら逮捕されたり、川霧の向こうに数百騎の武者が並んでいたり、眠りに落ちると水になっていたりする。そんな中、俳句が束で繰り出される。 任天堂の歌留多で倒す恋敵 中村安伸 俳句も不思議と物語の一部に見えてくる。 SF好きな人におすすめしたい。 小津夜景(おづやけい)は、高山れおな句集などを読んで俳句を始めたという。高山といえば、前書きが短歌や日記になっていて俳句作品と重層的に楽しめる句集『荒東雑詩』(沖積舎)があるが、小津の句集『フラワーズ・カンフー』(ふらんす堂)には、李賀の漢詩を前書きにして章、詩と俳句が交互に出て絡み合う章、短歌の章などがある。様々な素養が言葉として滴り、最終的に俳句のかたちになったりならなかったりするのを見物する面白さがある。和語の物腰と読むたびに剥落しそうな仮名の表現がいい。 もみあげの風を古巣としてわれは 小津夜景 鈴木一平の『灰と家』(いぬのせなか座)は詩集だ。言葉として印刷された文字が、紙の白さを喜んでいる。手近で地味な景色を具体的に描くことと言語実験との関係性が新鮮で、俳句的とも言える詩である。日記という章では、上段に俳句が、その下に日記のような短文が並ぶ。 靴ずれやひなたの幹に映る木々 鈴木一平 俳句の出来は巧拙あるが、この詩集を面白く読むだろう読者に、俳句が寄与できることに感謝したい。 三人に共通するのは、独学で俳句を始めた点、良質な俳句読者である点だ。俳句の自由な読み方を知っているのだ。 句集に俳句作品以外の楽しみが用意されることは、既存の俳句読者以外をも惹きつける可能生を秘めている。これからも、新しい俳句の見せ方に期待したい。 この佐藤文香さんの「新しい見せ方」という論は、たとえば「ふらんす堂通信151号」の野村喜和夫さんとの対談の最後の方で高柳克弘さんが言っていたことと呼応する。 微力ではありますけれど、やっぱり読む文化、読まれる文化みたいなのを寛容して行けたらいいなあという部分が非常にあるんですけれどもね。 (略) 例えばこう句があって、それに対して例えば散文と響き合わせるという。芭蕉なんかはそうですよね。蕪村もそうだったんですけど、紀行文の中に俳句が出てきたりとか。散文と俳句って本来はそんなに相反するものじゃなかったんですけれど、ある時期からやっぱり一句独立って言う近代以降の価値観が出てきて、それに対して作者がくどくどとこう散文で述べるって言うのはNGって言うこう、確固としたものが。 今まで潔癖に散文を排除しすぎたところもあるのかなあと。 そうして高柳さんは、ふらんす堂の「俳句日記」や「短歌日記」の試みをあたらしい俳句の見せ方として評価してくださっている。 句としての質も下げずに、散文との照応って言う、新しいかたちの文芸もあり得るのかなあと。 佐藤文香さん、高柳克弘さんのお二人はいずれにしても俳句を読まれる文芸として確立していきたいという強い思いがあるのである。読み手より作り手の方が多いこれまでの俳句の在り方に対して、純粋読者の獲得、これからの大きな課題だ。 そういえば、先日俳人のふけとしこさんからおくっていただいた『ヨットと横顔』(創風出版)なども、エッセイのなかに俳句が鏤められていて、(おもしろく拝読)「俳句とエッセー」というシリーズの第2弾である。このシリーズの企画者坪内稔典さんなども、俳句読者の獲得に力を注いで来られた俳人ではないだろうか。。。 26日の東京新聞の「句の本」では、米田清文句集『家郷』が取り上げられている。 玫瑰や南宗谷の町五つ 大寒や丹頂鶴の今朝の声 亀の咽喉ごくりと動く残暑かな オホーツク海に臨む町に生まれ、大学で哲学を修めた著者が、故郷や吟行の地を詠んだ三百十三句。 今日の朝日新聞の「俳句月評」では、恩田侑布子さんが後藤比奈夫先生について書かかれている。いい文章なので全文を紹介したい!が、抜粋して紹介。 世阿弥は能の奥義を老木(おいき)に花咲かすことだといった。いま俳句で奥千本の花をみせてくれるのは四月に満百歳になる後藤比奈夫。代表句に〈東山回して鉾を回しけり〉がある。句巾は柔軟で広やか。二〇〇六年蛇笏賞を受賞した『めんない千鳥』には斬新な現代批評まである。 蟻地獄までもバーチャルリアリティー 現実は仮想現実に浸食され、ついにお堂下には巣食う蟻地獄まで取り込まれる。スノーデンが告発したサイバー空間が地球上の見えない戦争を支配するように。 抱へられ跨ぐ湯槽や初湯殿 昨年の句集『白寿』は肉体の衰えを素直にあらわす。初湯は新年の季語。バスタブをじぶんではもう跨げない。若い介護職員に抱えられて浸かる風呂桶は、下五で一挙に御殿のゆたかさに変容する。初湯に合体した「殿」の効果だ。ものと春をなす老艶の境地といえよう。 喪に籠もりゐても年賀は述べたかり 長寿にも嵐はあり昨年愛息を喪った。父の夜半から継承主宰した「諷詠」を譲り四年。だが、俳精神はくじけない。 あらたまの年ハイにしてシャイにして 今年の新年詠。ハイは高揚する気分、シャイははにかみ。百歳のかわいさ、めでたさ、おかしみがあふれる。(略) なんともふくよかな上方文化の薫りだ。百歳の俳味にほっこりし、やがてシャンとさせられる。 今日の讀賣新聞の「枝折」には、佐藤理江歌集『あったこともない人々』が取り上げられている。 手触りを残したままの無くしもの仕事のために新品を買う 佐藤理江 「考える時間が足りません」の一連から始まる第5歌集。意外性に富む。 今日の毎日新聞の「新刊紹介」には、脇村禎徳句集『而今』が取り上げられている。 誰彼をこころに家居花八つ手 脇村禎徳 1935年生まれの著者の第10句集。2012年から3年間の作品をまとめた。素材の新奇を求めることなく自身の今を浮彫りにしている。
by fragie777
| 2017-02-27 19:32
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