カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
2月24日(金) 二の午 旧暦1月24日
椿。 2月もあと数日となってしまった。 残された2月という日々を楽しみつつ有意義に過ごしたいと思うが、いったい何をしたら内実のある2月にできるんだ? 誰か教えて欲しい。 さしづめ今日の夕食は、けんちん汁うどんにしよう。 それが2月を豊かにしてくれるかどうかはわかんないけど、美味いことは美味い。 それにカリフォルニア産のちょっとヘビーな赤ワイン。 乾燥マンゴーとこの赤ワインの相性は抜群である。 いくつか小さな記事を紹介したい。 (小さな記事っていうのがいいでしょ) 20日付の京都新聞の「詩歌の本棚」で詩人の河津聖恵さんが、田窪与思子詩集『水中花』について紹介してくださった。 田窪与思子『水中花』(ふらんす堂)の作者は神戸に生まれ、長年パリやブリュッセルで暮らし「母音の国」日本に戻った。日本の生活風景に異郷での記憶が透明に重なり合う。今ここが複数の時空へひらかれる自由と孤独。表題で作者は、日本にいながら永遠に失われた日本の美しさを、水の中に見つめつづける。 けれど、あゝ、水中花。 それは、百花繚乱のニッポン。 Kawaii、ニッポン、水中花。 放射能汚染水に封じ込められた、ニッポン、水中花。 甦るのか、朽ち果てるのか…… 静かにたゆたう、ニッポン、水中花。 「俳句四季」3月号では、「一望百里」という欄で二ノ宮一雄さんが、楠戸まさる句集『遊刃』についてとりあげておられる。 楠戸まさる「翡翠会」代表、俳人協会会員の『竹聲』『飛火野』に次ぐ第三句集。 雪はげし病室といふ檻の窓 あたたかやわが身に妻の腎蔵し きさらぎや身に鮮しき血の通ひ あとがきに「今日に到るまでの多くの方々との出会いや支えのお陰で現在の私があることに心ひきしまる思い」とある。その真摯な心から俳句に対する心構えも「定型詩の俳句に、自らの生きる道を重ねつつ、芸の道を深めたい」と誠実である。 ときに欲しゴッホの狂気寒茜 昼の月蓮枯るるに徹しをり 烏瓜真赤ぞ故郷捨てし悔い 竹馬や七十年をひとまたぎ 音尽くしたるおほがねの淑気かな 切株に座し花ふぶき花ふぶき 「切株に」の句は作者の絶唱である。次の句もいい。 一村のしづまりかへる日向水 豊年や星さそひ出す山家の灯 「俳壇」3月号では、山西雅子さんがふらんす堂刊行の二冊の本をとりあげてくださった。抜粋して紹介したい。 「星の木」同人の第6句集。2011年から15年冬までの407句を収める。 鳴く子猫尿する猫が母なるよ 母を求めて鳴く子猫の傍らで、その安全を確かめつつ束の間放尿する母猫。人間の母親も赤子を抱えるころは同じようなものだが、野生の猫は危険と隣り合わせであるぶん、命のありさまが丸裸になる。あっさりと描かれているだけに、生きること、親子であることの本質が見え、胸にしみる句だ。 (略) 襟立てて海ある限り喪の心 句集掉尾の句。東日本大震災を心に置く句であろう。 逝く春の星座のごとき絆かな という句も冒頭辺りにあるが、深い思いが籠もる。 「対岸」主宰の随想集。平成二十四年一月から二十八年三月まで「対岸」に連載したものを、「対岸」三十周年を記念して纏めたとのこと。「これは言ってみれば私のつぶやきのようなもの」と「あとがき」にあるが、今瀬剛一という俳人の素顔が窺える書である。全五十一章のうち、「悪筆」「せっかち」「「い」と「え」」「晴れ男」などは、タイトルからだけでも何となく浮かぶ人物像があり、誘い込まれる。(略) 「樹氷」は自宅の庭での話だが、二本あるハンカチの木の小振りな方の一本が咲かなくなってしまった理由を、別の一本を誉めた不用意な一言が傷つけてしまったのだ、と語る。「それ以後頑として一花さえ付けなくなってしまった。いくら謝っても小振りは許してくれなかった」というのである。心に残る話だ。 大井恒行さんが、 石原日月句集『翔ぶ母』についてそのブログで紹介をしてくださった。 吉田一穂の詩行への思いを重ねながらの大井恒行さんの鑑賞である。 吉田一穂に師事し、一穂を敬慕した加藤郁乎もすでにこの世にはいない。 そのことにあらためて愕然とするのである。 家の洗濯乾燥機がいよいよいけなくなってきた。 いまは、ドラム式のものを使っているのだが、ちょっと使いにくい部分もある。 従来のものにしようか、あるいはバージョンアップされたドラム式があればそれにしようか、 迷っている。 この休日に量販店に偵察に行ってくるつもり。 よろしき情報があったら是非にお教えくださいませ。
by fragie777
| 2017-02-24 18:57
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||