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2月3日(金) 節分 旧七草 旧暦1月7日
今日は節分。 お昼には太巻きを食べた。 この習慣は個人的にはここ二,三年である。 昔は豆まきこそすれ、太巻きとはご縁がなかったな…… こういう太巻きを家庭で上手に作る人がいる。 わたしは、作ったことがない。 食べたことは沢山あるけど。 これからもきっと作らないだろう。 じゃ、いったいおまえは何が作れるのか、と聞かれれば、 そうね、 (10分くらい考えてみたんだけど) 出てこない。。。。 おおいに、 呆れてくださって結構よ。 新刊紹介をしたい。 著者の田島健一(たじま・けんいち)さんは、1973年東京生まれ、東京在住。石寒太に師事。「炎環」同人。同人誌「豆の木」「オルガン」に参加している。本句集は第1句集となる。序を石寒太主宰が寄せている。 短いものなので、全部を紹介したい。 無意味之真実感合探求 新感覚非日常派真骨頂 漢詩のように漢字を十ほど二行に並べたものであるが、長文をつらねた以上に田島さんが目指しているものをサジェストしているようだ。特別な序である。石寒太主宰にとっては、小さい頃からの俳句を学んだ大切な可愛い弟子であるのだ。 この「ただならぬぽ」という、恐れ多い意味があるような、肩すかしを食わせるような思わせぶりのタイトルがくせ者である。なぜなら、この句集のタイトルに「ぽ」という字が入っていたということを私たちの脳髄に否応なく刷り込んでしまうからである。この句集の刊行後、本句集を買いたい人が本屋さんに行って、「それでなくてもぽ」が欲しいと注文したところ、「ぽ」という語しかタイトルが合っていないのに、書店さんが「ただならぬぽ」のことですか、と聞いたというのをツイッター上で読んだ。「それでなくてもぽ」というタイトルもなかなか素敵で思わず笑ってしまったが、この「ぽ」の故にちゃんと本句集が購入できたそうである。これはやはり「ただならぬ」「ぽ」なのである。 いやはや、「やるな」と思わせる「ぽ」である。 ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 集中にある一句である。 この句によれば「ただならぬ」のは「ぽ」であるよりも「海月」であるらしい。「ぽ」が繰り返されているが、この「ぽ」は、句集名の「ぽ」ほどの存在感はなく、句をつなぐためにやさしくおかれたなにか、であるかのよう。この「ぽ」について、あれこれと詮索してはいけないのかもしれない。この一句を口ずさむときに「ぽ」って口をすぼめていくぶん楽しそうに言う。するとこころの中に「ぽ」の波動が愛おしく広がっていく。そう、それで充分なのである。 ほかの一字をもってきたらどうか。たとえば、「ぺ」。ダメ、愛おしさがなくなってしまう。「ぱ」ではしまりがない。「ぴ」ではうるさい。やっぱり「ぽ」である。そう思うとこの「ぽ」、やはりただならない。 この句集の担当はPさん。Pさんはわたしよりはるかにと言いたくないが、はるかに若く田島さんの年齢にわたしよりは近い。「好きな句が結構あった」ということで挙げてもらった。 草笛を吹くいちれんの手がきれい 蛇衣を脱ぐ心臓は持ってゆく 音楽噴水いま偶然のこどもたち 妻となる人五月の波に近づきぬ 颱風の眼にいて猫を裏がえす 胡桃いじくる手のなかの別の時間 息子きみは弓だ雪夜に強く撓り 白鳥定食いつまでも聲かがやくよ 葉を纏うとき白鳥も静かな木 猫柳こどものうつくしい会話 とくべつな光を食べて春の鶴 きさらぎの泥のひかりを撮るカメラ 紋黄蝶とくべつな子になるまで追う 冷遇ガール多彩な蛇に名前あり 死も選べるだがトランプを切る裸 薔薇を見るあなたが薔薇でない幸せ 飛魚を食い強運をもてあます 鹿抱いて孤独が架空である証明 死ぬたびに鶴くらやみを言葉にする 梟や息のおわりのきれいな詩 わたしの好きな句と結構だぶっている。そのことをPさんに言うと、「ああ、でも息子の句はぜったい私が好きな句だって紹介して」とPさん。 夕立を来る蓬髪の使者は息子 Pさんが一番好きだという句。 「その心は?」と聞いた。 「こんな息子が欲しい」と一言。 「句の立ち姿もいい」と。そして「それぞれの章立てにひとつの物語があって、それぞれの物語が全体となっている」と。 俳句が俳句であることは難しい。 それは自分が自分であることの難しさと似ている。 これまでこうして俳句を書いてきたけれど、 書いたものは、常にかけがえのない出来事だったと言えるだろうか。 これまで書いてきたものは、結局書けなかったものの堆積なのかも知れない。 本書をまとめながら、これは、ただただ幼稚な主体が 少しだけ大人めくためのプロセスに過ぎなかったのではないか、と怖くなった。 願わくばここに書かれたものが、 繰り返し想起されるに値するものであることを。 私の息切れや痙攣のような一句一句を、 ひとまずの全てであるところの私として。 あらゆる人のはじまりであることの困難さの代わりに。 「あとがき」として書かれた言葉である。 ほかに、 枇杷無言雨無言すべてが見える 爪切りにぐっとかたちのある薄暑 友達でふさがっている祭かな 金魚売り豪雨のなかを帰りけり 父が母へ投げる玉葱俺の上 いれものにいれるとねむるように鯊 水蜜桃ふた部屋を風とおり過ぎ 夜の火事大人の間から見える 子の言葉殖ゆ綿虫の一大事 接吻のまま導かれ蝌蚪の国 不純異性交遊白魚おどり食い 海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ うつくしき朝日を値切る金魚売り あまぐもや蜜豆ひとつ置き空想 二十日鼠のまなざしを継ぎ億の雪 生まれては死んでは開く障子かな 次のバスには次のひとびと十一月 兎の眼うつくし紙のような自我 本句集の装釘は和兎さん。 やはり「海月」に登場してもらった。 「ただならぬぽ」の上あたりを漂っているのである。 この用紙にたどりつくまで、和兎さんは苦労した。 これは分かるでしょ。 ひらがなの句集名と海月の浮遊感。 しかし、句集のつくりそのものは骨格のある仕上がりとなった。 本句集を読みながら、俳句の新しさって何だろうと思った。文体の新しさ?五七五のリズムをくずした句またがりの句が多い。破調の句も少なくない。そういう詠みぶりも新鮮に思える。五七五で詠むことでは伝えきれない身体感覚のようなものを感じた。 さて、 兎の眼うつくし紙のような自我 好きな一句である。「紙のような自我」っていったい、と思うが、何しろ兎の美しい赤い眼に射すくめられてしまっている。この紙は真っ白な紙、和紙であったらもっといい。本句集には「ような」を用いた句は少なくない。しかしそのなかで「紙のような自我」これは気に入っている。 「清潔な乾いた童心」 本句集を読んで思ったことである。 実は著者の田島健一さんを中学生ぐらいから存じ上げている。 「炎環」の新年会に呼ばれて行くとかならずいた。 大人たちにまじってとても自然体で楽しそうにしていた。 「俳句をやってる」と聞き、驚いたことを覚えている。 すこし恥ずかしがり屋だったあの少年の田島健一さんの句集をこうして刊行させて貰えたことはとても感慨深い。 そして嬉しい。 句集中にはあの一五歳くらいの少年が見え隠れするのだ。 読んでいてそれも楽しかった。。。 わたしだっていまより若々しく瑞瑞しかったでしょ、田島さん!
by fragie777
| 2017-02-03 21:31
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