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1月12日(木) 旧暦12月15日
「あーあ」と、わたしは椅子の上で大きくのびをして身体をそらせ天井を見上げた。 そして目を閉じしばらくじいっとしていた。 今日は小さな活字をずっと見続け、根を詰めた仕事をしたのだ。 ふっと、目をあけたところ、(あら、いやだ、あんなところにあったじゃない!)、とうとう見つけた。 ずっと探していたウォットテッシュの丸い容器が上の方で白く光っている。 わたしの背後の戸棚のてっぺんに乗っていたのだった。 ものを食べるたびに、いったいどこへいっちゃたんだろうって思い、でも買ったばかりだから今買うのはなんだか悔しいし、いったいどこに消えたのよおって、日々ウォットテッシュの姿を探しもとめていたのだった。 まっ、ときには、椅子の上にふんぞり返ってみるものである。 しかし、いったい誰が、あんなところに乗せたんだろう。 (夜中に働く小人さんか?……) いや、わたしか。。。 新刊紹介をしたい。 著者の廣岡あかね(ひろおか・あかね)さんは、昭和22年(1947)東京生まれ、現在東京・武蔵野市在住。平成15年(2003)に「よみうり日本テレビ文化センター「俳句実作と鑑賞」(講師・西村和子)を受講されたことによって俳句をはじめる。同年、「知音」に入会し、平成22年(2010)「知音」同人となる。本句集は、平成15年(2003)から平成27年(2015)までの22年間の作品を収録した第1句集である。序文を西村和子代表が寄せ、帯文と10抄出は行方克巳代表によるものである。 戦後のベビーブームに生まれ、受験戦争をくぐり抜け、結婚ブームの頃新家庭を持ち、生まれた子供が第二次ベビーブーム世代。廣岡あかねさんも私も、そんな団塊の世代のひとりだ。彼女の本名が「和子」であることも親しみを覚える。平和を祈る両親の願いの結晶で、同世代に最も多い名前だ。 しかし、句会の名乗りの際は混同するので俳号を作ることを勧めた。好きな色と語感で選んだ「あかね」と名乗る時、それまでとは違った新たな自分を見出して嬉しそうだ。少し恥かしそうでもある。 菊日和なり男は愛敬の家系 本来なら「男は度胸、女は愛敬」というところだ。又、本来なら五・七・五の定型に収めるのが俳句だ。が、この句は破調ゆえに味わいが増す。 笑顔の素敵な、明るく愛すべき男たちが、それぞれの年代に応じて見えてくる。菊日和の佳き日に、一族の顔を眺め渡してみて改めてその感を深くしたのだろう。 「なり」を省略して音読してみると、形は整うが面白味に欠ける。型を破ってこそ愛敬も出てくる。こうした思いきった手法を、今後も大いに試してみるといい。 形代に書く名のひとつ増えにけり 夏越の祓の形代に書く名は、ごく近い身内である。その名がひとつ増えたということは、この一年のうちに誕生した子の名前だろう。しかし、我が子であったら、これほど冷静には詠めない。お孫さんにちがいない。ごく最近の作である。 俳句で孫を詠むことはとても難しい。可愛いさ余って愛情過多の句になりがちだ。だからと言って可愛い盛りの孫の句を詠まずにはいられない。これは団塊世代の私たちの目下の課題でもある。こうした程のよい愛と祈りに満ちた句を大切に思う。 句集を編むことで過去の十数年を顧みて、家族と人生への愛着を増したあかねさんの、これからの十年は、俳句と共にますます充実し、深まってゆくことだろう。 西村和子代表の序文である。 本句集の集名は「りつしんべん」。「りっしんべん(立心偏)」とは、漢字の偏のことである。そして廣岡あかねさんは、この「りっしんべん」について俳句を詠んでいるのである。 悴みて立心偏のゆがみたり あかねさんの句には随所に女性としてのこまやかで、やさしい心遣いが見られる。しかし、その心奥にはなかなか強いものがあり不可とすることには決して折れない心意気があるようだ。じっと何かに耐えるとき立心偏がゆがむのもそのためであろう。 行方克巳代表の帯文である。 著者をよく見据えた帯文である。本句集の担当は、文己さんであるが、著者の廣岡さんの本作りに対する心意気は、文己さんをはじめわたしたちスタッフ達によく伝わってきた。「不可とすることには決して折れない」心意気である。そういう思いでご自身の本づくりに臨んでくださるのは、こちらとして有り難いことである。思い描くイメージがあり、それをこちらにきっちりと伝えて下さった。 担当スタッフの文己さんは、ずいぶん勉強になったのではないかと思う。その文己さんの好きな句は、 梅雨湿り髪切りしこと気づかれず 雨四日企業戦士の夏休み子には子の考へのあり秋刀魚焼く 噴水や結論出せぬまま二人 夏休みパンダパンダとリュック揺れ 雪を掻く親の仇のやうに掻く ゆたんぽを撫でて叩いて買はずに行く この一句、序文でも取り上げられていたが、わたしも好きな句である。 およそ商品として「撫でて」「叩いて」買わずにすまされるのは「湯たんぽ」くらいだろう。 「湯たんぽ」はそういう運命にあるのである。 よもや、買ってもらったとしてもである。 ひたすら人間の身体を温めるために熱湯を飲まされても不平一つ言わず人間に仕え、不要な季節は暗い納戸の奥に押し込まれてじいっと自分の出番を待つのである。 深いため息ととも身体に皺がよるはずである。わたしが思うに湯たんぽの皺は湯たんぽの歎きの皺である。 商品としては、無視されるより買われなくとも、撫でて叩かれるだけ存在価値があろうというものである。 「湯たんぽ」には、俳人の小澤實さんによる「ゆたんぽのぶりきのなみのあはれかな」という名句があるが、まさにこの廣岡さんの「湯たんぽ」の句は「湯たんぽのあはれ」をユーモラスに詠んだものだと思う。 平成十五年四月、カルチャースクールの「俳句実作と鑑賞」という西村和子先生のクラスに出席したのが、私の俳句との出会いだった。 小学校からの同級生で知音同人の帶屋七緒さんに誘われたのだ。初日、おずおずと参加すると、行方克巳・西村和子共著の『名句鑑賞読本』をテキストとしての講義で、その日は水原秋櫻子の十句の鑑賞だった。 俳句とは縁遠かった私でも知っている句がいくつかあり、久しぶりの教室形式の講義にすっと心が落ち着いたのを今でも覚えている。毎月、一人の俳人の句を鑑賞する講義が一回、句会が一回という、初心者にとってまたとないスタートを切ることができた。 その後知音に入会し、例会の吟行句会や、初心者のためのボンボヤージュ教室に参加し、西村・行方両先生に同時に師事するという、贅沢な環境に恵まれ、今日に至っている。 この十余年間、幸いにも平穏に過ごすことができたと思っているが、句をまとめてみると、家族にもそれぞれの変化があり、一冊のアルバムのようで、平凡な生活に三人の孫たちが、句材をいろいろと提供してくれていたことに改めて気付く。彼等がそれぞれこの句集を読める年齢になるのも、楽しみの一つである。 「あとがき」の言葉である。 ほかに、 第一球大きくはづし梅雨晴間 キッチンにケチャップ匂ひ夏休み 若者の傘に色なく梅雨に入る 片蔭に寄せて違反の切符きる 階段のみしりと鳴りて寒戻る 木の芽風子は靴下を脱ぎたがる 膝までのつもり胸まで水遊び 実柘榴の怨みがましき顔したる 惜春の貼紙一枚もて閉店 ラムネ売り時折ビンを並べ替へ 春浅しカナリア色のエレキギター ギターケースに百円玉千円札落葉 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 「りつしんべん」というタイトルをどう装釘するか、腕の見せどころだ。 しかも、廣岡さんにははっきりとしたご要望があった。 色はあかね色。それは決まっていた。 たくさんのイメージよりご希望に添うものがあって、今回のものとなったのだった。 これは廣岡あかねさんのご要望である。 バックのグレーが金箔を引き立てている。 落ちついた感じで。 「りつしんべん」という面白いが装釘するのはなかなか難しいタイトルがきわめてスマートに出来上がった。しかも女性らしい華やぎもある。 春の雪降れ降れ用のなきひと日 「春の雪」だからいいって思う。降れ降れと心で囃したてても、そしてたくさん降っても春の雪はとけるのが早い。春をよろこぶ心の弾みと明るさ、今日は外に出ることもないし、ふわふわした春の雪の降りゆくさまをじっくりと楽しもう。作者は東京の郊外に生活している。だからこその一句なのかもしれないけど。用事がなにもない一日は少女にもどったようなそんな気持にもなれる。 赤のコートと帽子が素敵な老婦人だった。
by fragie777
| 2017-01-12 20:24
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