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12月19日(月) 旧暦11月21日
その青空の下で魚釣りをしていた親子。 魚釣りには父親は欠かせない。 昨夕は俳人の片山由美子さんにお目にかかって一年の労をねぎらった。 「ふらんす堂句会」の片山由美子句会は、始まってより15年近くなるか。 17日の句会などは50人を上回る人たちの参加だった。 しかし、選ばれなかった句もふくめて全句講評をしてくださる。 「やはり、50人を超えるときついですね」と片山さん。 「最初に年間賞を差し上げた方がいまもなお出席されているのよ」とも。 丁寧できっぱりした指導がなんとも人気がある。 同じように「岸本尚毅句会」も「高柳克弘句会」も全句講評でそれは懇切である。 遠くから時間をかけて参加される方もおられる。 結社に所属したくはないけれど、信頼できる指導をのぞむ人たちがいる。そういう方々にとっては恰好の、それぞれ魅力ある句会であると思う。 新聞紹介の記事をいくつか。 17日付けの讀賣新聞の「枝折」に、シリーズ自句自解1 ベスト100 『山本洋子』が紹介されている。 秋の薔薇女の煙草風にのり
会社の俳句同好会の吟行会で俳句に開眼。葛城山の散策などをつづった文章も楽しい。 同じく17日付けの東京新聞には、小川軽舟さんによる「俳句月評」に中原道夫句集『一夜劇』が取り上げられている。高野ムツオ句集『片翅』とともに。タイトルは「わが道を行く」。東京新聞は、なかなか目にすることが少ないので全文を紹介する。 高野ムツオの三年間の句集『萬の翅』は、東日本大震災直後の状況を被災地から伝えた〈車にも仰臥という死春の月〉〈陽炎より手が出て握り飯掴む〉などの作品で鮮烈な印象を残した。その高野が果てしない「震災後」をどう詠うのか。重いテーマを背負って第六句集となる『片翅(かたはね)』(邑書林)が出た。 〈死者二万餅は焼かれて脹れ出す〉、高野のこの句から思い出されるのは、俳人である長谷川櫂が震災の翌月に出した『震災歌集』の〈かりそめに死者二万などといふなかれ親あり子ありはらからあるを〉という短歌。長谷川の鎮魂の姿勢が揺るぎなく真っ当なのに対して、高野の句はどこか奇怪ですらある。「死者二万」という痛ましい事実と目の前で焼ける餅。まるで二万の餅が無念の思いで脹れ出すようだ。高野の憤りも同調して脹れ出す。生き残った者はその餅を食らって死者の分も生きなければならない。綺麗ごとの鎮魂を払いのけて高野の真情が現れている。 〈草木国土悉皆成仏できず夏〉〈寒濤や夢にまで手が伸びて来る〉〈福島は蝶の片翅霜の夜〉〈せりなずなごぎょうはこべら放射能〉、震災は高野の胸中で解決も解消もしていない。それがこのテーマに向かい続ける原動力になる。〈刻まれし痛みか葱の白光は〉〈南部若布秘色滾る湯にひらく〉、秘色(ひそく)とは青磁の色、台所の日常詠にも高野の背負ったものが滲む。 その一方で高野本来のスケールの大きな詩情が噴出する作品にも多く出会えた。〈星空は宇宙のとぐろ春を待つ〉〈ことごとく我らを睨み冬の星〉〈冨士山も一吹出物冬日和〉〈産道を抜けしは一度は天の川〉、読売文学賞他を受賞した前句集の高みに気負うことも怖気(おじけ)づくこともなくわが道を行く。 中原道夫は団塊世代の高野より四歳年少だが、句集『一夜劇』(ふらんす堂)が早くも十二冊目。〈うぐひす餅巣箱のやうな口に入る〉〈茶立虫茶杓の銘を言うてみよ〉〈足抜きの至難を言へり掘炬燵〉、機知が綾なす洒脱な作風は相変わらずだ。〈蟻喰の舌を登れる蟻二三〉は奇想。一瞬の後に呑み込まれることも知らず孜々(しし)とその舌を登る蟻は人間社会の寓意とも見える。他方で〈茶巾鮨やぶれて中の春のぞく〉〈湯の沸いて絹莢の筋取り始む〉など軽いタッチで描かれた食べ物の句も中原らしい。〈日盛りを出てゆく覚悟とも違ふ〉〈萩に雨こんな日もなければ困る〉、多忙な中原が心の内をのぞかせたようなこうした句もおもしろいと思った。 〈ふたたびの銃声寒夜貫通す〉、昨年十一月のテロ直後のパリでの旅吟がこの句集の掉尾を飾る。〈血を血で洗ふ絨毯の吸へる血は〉〈血は花と散る隠れ家(アジト)に暖取りし跡〉、現地の緊張に身を置いてこその迫力がある。そしてこれらの凄惨な血の印象から〈とぐろ巻く血の腸詰(ブータン・ノワール)聖夜待つ〉の祝祭的な旅の昂揚へと華やかに飛躍してみせるのが、現代の余裕派たる中原の面目躍如というところだ。 今日は昼より、東京駿河台にある山の上ホテルにて件の会による「さろん・ど・くだん」第十三回の催しが行われた。ドナルド・キーン氏と養子縁組をされた息子さんのキーン・誠己さんのお二人をお招きして『黄犬(キーン)ダイアリー』(ドナルド・キーン キーン・誠己 共著)の出版記念会が行われた。ふらんす堂からはPさんが出席。キーン誠己さんによる古浄瑠璃の演奏や古浄瑠璃の研究をされている鳥越文藏氏のお話があったりで楽しいひとときであったということである。 右より金子兜太、ドナルド・キーン、鳥越文藏の各氏。 お話しをされるドナルド・キーン氏。 ご子息のキーン誠己氏。 お二人の共著『黄犬(キーン)ダイアリー』(平凡社) カバー折り返しに「黄犬(キーン)の由来が書かれている。 キーン先生が子どもの頃に飼っていたスピッツの愛犬ビンゴがモデル。 「黄色い犬」=「黄犬」=「キーン」という言葉遊びから誕生した、ご自身による愛称。 タイトル文字も自筆。 キーン家のお墓にも「黄犬紋」が彫られている。 デザインはキーン誠己氏の兄の上原誠一郎さん。 非常に読みやすいエッセイである。たまたま開いた2頁を紹介しよう。2014年9月7日の日記だ。(ウン、ウンと言いながら読んだ) (略) 今月は「敬老の日」がある。今年で私は九十二歳になったが、年齢を意識することはほとんどない。いや、正確には五十五歳になってから考えなくなった。それは子どものころ、父がどういうわけか悲観的で「人間は五十五歳になる前に死ぬべきだ。何の役にも立たなくなる」と私に諭したからだ。当時の私には、遠い未来の話で「そんなものなのか」と受け入れていた。 だが、実際には年齢の線引きに意味はない。私が最も影響を受けたのはコロンビア大学で薫陶を受けた角田柳作先生だ。学生として初めてお会いしたときに既に六十代。教えることに情熱的で八十七歳で亡くなる直前まで教壇に立ち続けた。 作家の野上弥生子とは、彼女が九十代のときに二度、対談した。創作意欲は衰えず、彼女は九十九歳で亡くなるまで書き続けた。 日本人ばかりではない。私がクラッシック音楽にのめり込むきっかけとなったNBC交響楽団の指揮者だったアルトゥーロ・トスカニーニはジュゼッペ・ヴェルディのオペラを七十代で見事に披露した。そのヴェルディは八十歳を前にオペラ「ファルスタッフ」を作曲し、大成功をした。私の父も八十代まで生き、晩年が最も幸せそうだったのだから、「何をか言わんや」である。 私も年は取った。健康に留意していた友だちが不思議と早く亡くなり、同年代は数えるほど。三年半前には私も痛風が元で高熱が続き、初めて三週間ほど入院した。周りは「寝たきりになるのでは」と心配したそうだ。その病気が元で足の幅が広くなり、特注の靴しか履けなくなった。正座もできなくなった。 酒も弱くなった。文学者には酒が付きもので、昔は吉田健一や草野心平らともよく飲んだ。だが、今では夕食時にワインを一杯たしなむだけである。よく聞くアメリカンドリームに「成功して引退後は南の島でのんびり」というのがあるが、私は考えたこともない。夏の間、私は軽沢の別荘にいる。別荘とっても庵(いおり)といった方がふさわしい古くて小さな木造平屋建てだ。自慢は風が響き、雨音を肌で感じられる静けさだ。そこにこもって石川啄木の研究に専念している。本を片手に論文を書き続ける。それが私の生きている証しである。 不肖yamaokaも死ぬ直前まで仕事をしつづけていたい。 キーン氏と比べるなんてあまりにも不遜であるけれどね。
by fragie777
| 2016-12-19 20:00
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