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12月6日(火) 旧暦11月8日
深い意味はないのだが、今日は真っ赤なセーターを着て出社した。 この山茶花の花よりももう少し朱がかっている赤なので結構派手である。 組み合わせたものはすべて黒であるので、余計にセーターの赤さが目立ち、鏡を見るたびに自分のセーターの赤さにドキッとした。 (真っ赤じゃん……) そうは思いながらも、「赤」という色は嫌いじゃない。 (似合うかどうかは別よ) 新刊紹介をしたい。 著者の草深昌子(くさふか・まさこ)さんは、1943年大阪生まれ、現在神奈川県厚木市在住。1977年に「雲母」(飯田龍太主宰)に入会、1985年「鹿火屋」(原裕主宰)に入会、「鹿火屋新人賞」「鹿火屋奨励賞」などを受賞し、2000年に「晨」(大峯あきら代表)に同人参加、「ににん」(岩淵喜代子代表)に同人参加。現在は「晨」同人と同時に俳誌「青草」を主宰している。本句集は前句集『邂逅』につぐ第三句集となる。 句集名「金剛」の由来について、著者は「あとがき」でこのように記す。 句集を編んでおりますと、この方十七年、吉野、近江、伊勢志摩など方々へ、大峯あきら先生、山本洋子先生とご一緒させていただきました幸せな歳月が思い出されます。 ことに、恒例の吉野の桜吟行はかけがえのない濃密な句会でありました。 美しい山桜の宿で、庭下駄に下り立って、先生はじめ「晨」の十名ほどの皆さまと共に、ただ黙って、金剛山に沈んでゆく美事な夕日を眺めたことは、生涯忘れることはないでしょう。 「金剛」こと金剛山は、吉野のある奈良県と、私が生まれ育った大阪府の境に立つ主峰です。なつかしさが重なり、句集名といたしました。 本句集『金剛』はその名のとおり力強い晴れやかなエネルギーの充満した句集である。 赤子はやべつぴんさんや山桜 金剛をいまし日は落つ花衣 ともに吉野で詠まれた桜の句であると思うが、色彩豊かな命の漲りを思わせる。本句集は陽性の気にみちた気持ちの良い句集である。筆力という言い方が適正であるかどうか分からないが、鍛えあげた筆力があり読者をぐいぐいと引っ張っていくような面白さがある。前句集『邂逅』が2003年に上梓されているから、すでに15年近くの歳月が流れたわけだが、たぶんこの間の著者の「俳句の鍛え方」は並々ならぬものがあったのではないかと思う。前句集よりはるかに突き抜けた面白さがあるのだ。 江ノ電の飛ばしどころや白木槿 七夕の傘を真つ赤にひらきけり 秋の蟻手のおもてから手のうらへ バット振るやうなる音を秋の蜂 三つ四つ棗齧つてから笑ふ 稲は穂に人は半袖半ズボン 木の葉髪赤いリボンのつけどころ 綿虫に障子外してありしかな 忘年の泉のこゑとなりゐたり 煤掃いてパンもご飯も餅も食ふ 雪降るやかへすがへすも雪降るや (悼 田中裕明先生) 寒晴や鼈甲飴は立てて売る 梅を見る鞄大きく傘小さく 春泥を行くに号令かけてをり かりそめに寝たるやうなる寝釈迦かな 初蝶の如雨露を越えて来りけり 銀蠅を風にはなさぬ若葉かな 水馬かまひにまたも水馬 をさなき子まつくらといふ木下闇 男の手ひらくや一個青胡桃 病人のベッドに立てる大暑かな 赤い目の白い兎や南風 夏逝くか顔に帽子のずり落ちて 句集前半の句を紹介した。ムードや気取りを捨て去り、リアリズムに徹してものを見る。余計なものをとっぱらって見えてきたものを一句にする。そこに草深さんがこれまでに鍛錬して培った俳句的センスが光る。気持ちのよいまでに情趣を排した作品群であるが俳諧性に富んでいて読むものを飽きさせない。まさに俳句でなくては言い得ない表現を獲得している。 本句集の担当はPさん。 好きな句を挙げてもらった。 水澄んで流るる鯉となりにけり 神の留守蘇鉄は高くなりにけり秋の蟻手のおもてから手のうらへ 富士山にそむきまむきや寒鴉 足の向くところかならず春の泥 涼しさの丸太ん棒に座りけり 寒晴や鼈甲飴は立てて売る 秋分の翳りを雲に集めたる 平なるところなかりし花野かな ぬかるんであれば梅散りかかりたり 風船の割れんばかりに光けり 松風の少しつめたき武具飾る 「秋の蟻手のおもてから手のうらへ」この句「手のおもてから手のうらへ」が面白い。ここまで言うか、と。「寒晴や鼈甲飴は立てて売る」も、鼈甲飴は寝かせては売らないでしょう、と思うが、鼈甲飴がすっくと輝き、「寒晴」の季語が俄然生きる。 『金剛』は、私の第三句集になります。 第一句集『青葡萄』を平成五年に、第二句集『邂逅』を平成十五年に刊行いたしました。そして又、十年後には第三句集をと心準備をはじめた矢先に、夫を亡くしました。 平成二十四年五月、病院でのすべてのことを終えて、夫と共にわが家へ帰る途中、車は丹沢山系の麓の大きな竹藪にさしかかりました。 竹はことごとく皮を脱いでいました。 人は死に竹は皮脱ぐまひるかな 大峯あきら 我知らず、一句が溢れました。 まさしく、人は死に、竹は皮脱ぐ、真昼、でした。 「季節とはわれわれの外にある風物のことではなく、われわれ自身をも貫いている推移と循環のリズムのことである。世界の中の物は何ひとつこのリズムから自由にはなれない」(『花月のコスモロジー』大峯顯著)という一節が、即座に蘇ったことを覚えています。 ふたたび「あとがき」を紹介した。 第3句集刊行までに重い歳月があったのかもしれない。 後半より句を紹介したい。 さも遠くあるかに秋の雲を見る 銀杏散る蝶も黄色に来りけり 湯婆のほかは求めぬこころかな 富士山を真正面に初泣きす 眼が合うて笑ふ三日の見知らぬ子 蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり 子規思ふたびに草餅さくら餅 栄螺焼く刷毛のしづくのうまさうな 涼しさの敷居の高くありにけり サングラスかけて命のことを言ふ 氷川丸そこにバナナの匂ひけり おもひきり遺影の笑ふビールかな 網戸より沖の一線濃く見たり 遠く行く人のうしろの茂りかな どの句もポジティブに闊達に生きている人間が見えてきて気持ちがいい。季語が人間の命脈に直結しているというべきか、達者な作家であると思った。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 君嶋さんの装釘としては、かなり思いきった華やかなものとなった。 しかし、この華やかさは草深さんの生命の質量と比例している。 (ふらんす堂の本は、PP加工のものは少ない、あってもマット(艶なし)PPであるが、これは艶アリ、一年に一度あるかないかのPP加工である) 帯も金刷り。 桜と金色はよく合う。 縮緬のような皺がある淡いピンク、そこに金と銀の箔がはられてあるもの。 草深昌子さんは出来上がりをとても喜んでくださった。 神の留守蘇鉄は高くなりにけり 堂々とした一句だ。草深昌子というたっぷりとした肺活量をもつ俳人の力量を思わせる一句だ。リアリズムに徹しながらも句集全体をおおう晴れやかな気配は、著者のなかにある豊かさ、それを「心の花」とでも言おうか。「心の花」を秘してものを見る、しかし、おのずとその心の花が作品に現れるのではないだろうか。 草深昌子さんはご自身のサイトをお持ちです。 是非にアクセスを。 いやはや、今日は真っ赤なセーターを着てきて良かった。 なぜなら、句集『金剛』が放出するエナジーに負けてしまったかもしれない。 丹田の力を感じさせる句集である。 今日はこれから出かけます。 今晩あたりから寒くなるんですって。 ホッカイロをさっき這った。 そろそろ出かけようなあ。
by fragie777
| 2016-12-06 19:41
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Comments(2)
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kensuke
at 2016-12-06 21:05
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moriya-yamaokaさん
「神の留守蘇鉄は高くなりにけり」本當に佳い句ですね。「神の留守」といふ季語の力をまざまざと感じます。日本語に潜んでゐる「季節」と「自然」の力の發見が、俳句の一つの魅力であると教へられました。 子規が「古禿倉(ふるほこら)もとより神の留守にして」といふ句を詠んでゐますが、こちらは「古禿倉(ふるほこら)」といふ宛字が何ともいへず可笑しい。成程「古禿倉」では神のゐないのも致し方ないかといふ氣になります。これも年の所爲でせうか。(kensuke)
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fragie777 at 2016-12-07 19:09
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