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12月2日(金) 橘始黄(たちばなはじめてきばむ) 旧暦11月4日
どこに続いているのか。 今週に入って口の左右の口角がひりひりと痛い。 すこし切れ目がはいって口をあけたりすると痛いし、酸味のあるものを口に入れると沁みる。 幼かりし日はよくそういうことがあり、そうなると 「食べ過ぎだよ。」って言われた。 つまりは胃が荒れたり、くたびれたりしているのだと。 定期検診で今日はお医者に行って、「胃があれてしまって、口角がただれてしまって痛いです」と訴えたところ、 お医者さまはにっこりとして、 「いいえ、胃とは関係ありませんね。冬になって乾燥したことによるのでしょう。あるいはビタミンCが足らないのかも。軟膏を出してあげましょう」 と言うではないか。 わたしは◯十年、それは苔むす時間ほど、胃が原因だと思っていた。 いったい誰よ、小さい頃わたしにそれを刷り込んだのは。。。。 この地球上でそう思っていた人、そうじゃないんだって。。 新刊紹介をしたい。 少し遅くなってしまったけど。 俳人・今瀬剛一のエッセイ集である。平成24年(2012)から平成28年(2016)まで主宰誌「対岸」に連載したものを一冊にまとめたものである。「対岸」30周年を記念として刊行されたものである。 今瀬剛一氏というと、大変律儀で真面目なお方というイメージが強い。わたしなども存じ上げてから30年以上の月日、ひたすらそういうお方であると思ってきた。しかしである。このエッセイ集を読んでそのイメージは一新された。確かに真面目で律儀で礼を重んずる方である。だが、けっこうおっちょこちょいでユーモアのセンスもあってかなりの失敗談にも事欠かない。そんな日々が肩肘はらない筆致で書かれているのが本エッセイ集である。 読み出すとこれが面白い。ご本人を知っていると、なおさらへえーっという感じで驚きもある。 読み終えると、遠くの存在であった今瀬剛一という俳人が、とても身近な親しさをもって感じられる楽しいエッセイである。 一篇のみ紹介したい。 怪談 志ん生さんの落語に次のようなものがある。雨の降る夜、四ッ谷の駅で電車を降りた。もう人も疎らな構内を改札に向かって歩いていくと階段の上から女性が下りてきた。その髪は濡れて黒さを増し、おどろに乱れている。すれ違いざまに見たら何やら頬の辺りに大きな痣もあった。そういう話を聞くとぞっとする、下から上る人と上から下りる人、場所が四ッ谷、これが本当の四谷階段、見事に落ちている。話は落ちがつくからいいのである。一瞬話の中にのめり込ませ、決してそのままではおかない。最後はほっとさせてみせる。その話芸は見事であると思った。 私の東京通いも随分長くなったものとつくづく思う。それは二十代に始まり、現在も続いている。その頻度は二十代にはそれほどでもなかったが、三十代、四十代と年齢が進むにつれて増え、今では少なくとも月に十回ぐらいは出掛けるのではないかと思う。若い頃は時間ぎりぎりに駅へ行き、階段を二段ぐらいずつ駆けあがってとまっている電車に飛び乗っても平気であった。それが最近では発車三十分ぐらい前に行って駅でぽつんと待っていて、時間になるととぼとぼと電車に乗る。はっきりと老いを感じるのだ。思い返してみると色々のことがあった。 帰りに眠りすぎて気がついたら日立だったこと、改札で切符と間違って名刺を出してしまったこと、カバンを車内に置き忘れてしまったこと……、それは枚挙にいとまの無いほどである。 あれはまだ四十代の頃のことだったと記憶している。「沖」の句会が終わって、その後誰かの出版祝賀会が行なわれ、二次会もあって帰りがかなり遅くなった。当時は準急が走っていて、その最終電車に間に合った。指定券にしたがって通路側の席に座っていると疲れが出たのかついうとうととしてしまった。「すみません、通してもらえますか」、その声に私は目をさますと大きな荷物を両手に下げた中年の女性が立っている。私の隣の席なのに私が眠っていたので座れなかったのである。私は反射的に立ってその女性を通した。女性は荷物の一つを足許に置き、もう一つは窓側のフックにかけた。ようやく静かになるとともに再び睡魔に襲われた。するとまた「すみません」という声が聞こえた。今度はどこかへ出るらしい。私は再び立って女性を通した。それからが大変である。また戻ってきたら立たねばなるまい、そのことが気になって落ち着かないのである。ところが女性はなかなか帰ってこない。電車は土浦を過ぎ、石岡も過ぎた。それでも帰ってこない。フックの荷物は重そうに揺れている。優に四十分は経っている。そんなに遅い筈がない、もしかしたら……。悪い想像が次から次へと湧いてくる。何か捨てられないものを車内において、途中で降りてしまったのか、そもそもあの女性は何なのか……、乗客はほとんど降りてしまい数人がいるだけだ。車掌に言ったほうがいいのだろうか、いやもう少しまとう。色々な思いが交錯している間も、フックに下げた荷物は揺れているだけであった。私は改めてその荷物を見てぎょっとした。その吊り下げた荷物から何か滴っているのである。それが心なしか赤く見える。血か、もはや猶予はない、車掌さんを呼ぼう、そう思って立ち上がった時背後から声がした。「すいませんでした、あら荷物から垂れていますね、トマトが潰れちゃったのだわ、汚れませんでしたか」。 私は全身から力が抜けていくのをはっきりと意識した。 (「対岸」平成二六年八月号) 本句集の装幀は君嶋真理子さん。 グラシン巻きの瀟洒な一冊となった。 グラシン巻きは手作業となり技術をようするものである。 しかし何ともいい風合いがある。 見返し。 罫の部分が淡い茶色である。 知的でスマートな一冊となった。 わたしはこういうグラシン巻きの柔らかな本がとても好きである。 平成二十四年一月から今年(二十八年)の三月まで主宰誌「対岸」に連載した「一頁随想」をまとめたものである。これは言ってみれば私のつぶやきのようなもの、それだけに会員の方々は面白がってくれた様だが自分では少し気恥ずかしいところもある。四年たったので少し休もうと思って回数を数えたら丁度私の名前の剛一(五十一回)になっていたのも何かの因縁かも知れない。 「あとがき」の言葉である。 明日から郷里の秩父では「秩父夜祭」が始まる。 ここ何十年も行ってない。 俳人たちは一度は見てみたいと言う人が多い。 けっこういいわよ。 ロックだと思う。 寒風吹きすさぶ中の腸を突き上げるような太鼓の音、狂わんばかりの笛の音、目をつむればそれらが激しく蘇る。 それらはいまもわたしの血脈を流れている。 むかしはサーカスが来て、見世物小屋が並び、迷子にならないようにするのが大変だった。 いまはどうなんだろうか。。。。。
by fragie777
| 2016-12-02 19:32
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Comments(2)
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yamaokaさま
口角に切れ目…お大事に。 ところで、中国医学では 「脾の働き(の結果)は口唇に現れる」と言います。 「脾」は「胃」とセットで、消化、吸収、栄養の運搬等を する臓器。 よって、食べ過ぎ→胃が荒れる→唇周辺にトラブル …という yamaoka公式は 十分あると思います! 西洋医学と中国医学の視点の違いって、面白いですよね。
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