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12月1日(木) 旧暦11月3日
とうとう12月となってしまった。 いやはやいやはや、なんともなんともである。 12月よ。 もう少し遅い足どりでやって来て欲しかった。 しかしながら、 もうこうなっては、性根をすえて頑張らなくてはならない。 とここまで書いて、あーあ、とわたしは大きく伸びをした。 ホント、世の中やってられないことが多くて、実はわたしは今日午後の時間、30分ほどを密かに怒っていたのだった。 いや、仕事のことじゃなくて、個人的なことなんだけど。。。。 理不尽ですよ、神さま!!って。 しかし、12月1日の時間はどんどん進んでいく。 一刻も無駄にできない。 ということで新刊句集を紹介したい。 著者の水野晶子(みずの・あきこ)さんは、1944年西宮市甲子園生れ。現在は鎌倉市在住。1981年「雲母」入会、1992年「雲母」終刊、1993年「白露」創刊とともに入会、、2005年に「晨」入会、2008年「晨」同人、 2012年に「第5回白露エッセイ賞」を受賞、2014年「梓」同人参加。現在「晨」「梓」同人。本句集は俳句をはじめてより35年間の作品を厳選収録した第1句集である。句集名の「十井」について、「あとがき」でこのように記す。 長年私の住んでおります鎌倉には、昔から名水の湧く、伝説の井戸が十あり、それらをまとめて「十井(じっせい)」と呼んでおります。ささやかながらも、私の詩心が涸れることのないようにという願いを込めて、その「十井」を第一句集の書名に頂戴いたしました。さらに、十の井戸のうち、現在近くから見ることのできるものは、七つです。そこで、この句集を七章立てに構成し、各章の題名、即ち「六角」「銚子」などは、その七つの井戸の名を戴いております。 各章の題名はほかに「星」「棟立」「泉」「底脱」「瓶(つるべ)」などがありすべて井戸にかかわるものなんだろう。物語性を感じる。 本句集には、「梓」代表の上野一孝さんが帯と跋文を寄せ、俳人の木割大雄さんが栞を寄せておられる。 夕辛夷人に余命の漠として 作者の俳句初学期には、闘病の日々もあった。それから時間をかけて病身を養い、精神を磨き、いま、高い句境に到達した。句作に誠実に取り組んで三十五年、満を持しての第一句集。 上野さんの帯のことばである。さらに、跋文でこう記す。 この重たい「人に余命の漠として」という言葉に「夕辛夷」が取り合わされることで、重たいけれどもどこか清浄な、ほの明るい雰囲気に包むことができるのだ。 水野さんは、あえて詳細はおっしゃらないが、相当に壮絶な闘病生活を送られたようである。しかし、俳句を詠むことを通じてそこを切り抜け、さらには、もっと深い真理を獲得するに至ったのである。換言すれば、俳句の恩寵にあずかったということになるだろう。 栞を寄せた木割十雄さんは、水野晶子さんのご両親とも親しく、水野さんのお姉さんとは高校の同級生、水野家にはしばしばおじゃまをするそんな間柄だった。「俳縁・奇縁」と題して一冊の「富澤赤黄男句集」を水野さんの父上から賜った思い出から説きおこし思い出をあたためながら、四人姉妹の末娘だった水野晶子さんにエールを贈っている。 甲子園の堤家は居心地のいい場所であった。母上に叱られたこともいい思い出だが、その母上と、俳人として私は堤家での句会に同席したことがある。「馬醉木」の澤田しげ子さん指導の句会だった。そのとき、この家の四人姉妹は俳句で結ばれたご両親のもとに生れたのだ、としみじみ想った。 そのご両親に捧げる句集が、いま末娘によって誕生しようとしている。その場に私が居るのは、もう奇縁でも偶然でもない。俳縁としての運命なのだ。甲子園とは、そもそも、そういうところではなかったか、と思ってしまう。ですよ、ね。お父さん、お母さん。アッコが俳句を続けていますよ。見てやって下さい。 さみしさを吾子にさとられ冬の菊 暮るるほど星に近づく花辛夷 初花や生絹(すずし)のごとく小雨ふる 母と子の夜をいろどるさくらんぼ 麻酔室より若竹の濡れ見えて 黒南風や術後三日目死を忘れ 誰が住みしか泡立草のほか知らず 踏むほどに地の声ふかし落葉径 棺出づ誰もあふがぬ梅の空 (甥逝く) 添ふといふあたたかきこと鴛鴦ながる 誰がためもあらず雛を飾りけり 秋の虹泣いてゐし児が指をさす 桜の芽汐汲坂といふところ 今の世のつましき色や茄子の花 句集の前半の句をいくつか紹介した。 挙げた句のみならず、本句集の作品はどれも「さびしさ」を薄絹のようにまとっている。その作品の背後に死のイメージが揺曳している。それは、著者がいくたびか死の淵をのぞき見するような思いをしたことによるのかもしれないが、あるいは著者が拠って立つその土壌より吸い上げるものそのものがすでに夜の闇をたっぷりとまとっているのである。抜き差しならぬ無常感をその身に引き受けて蚕が繭を吐きだすごとく言葉の糸を吐く。織られたものには「さびしさ」が錯落している。 本句集の担当は、スタッフのPさん。 Pさんの好きな句を紹介したい。 如月や翔つ鳥影をむらさきに 笛の音をふふみて梅の実の育つ 三椏の花学らんの金釦 さへづりや聞けば音して水の湧く をんなしか持たぬ愁ひや春手套 荒神輿男に邪心などあらず 秋ふかむ馬が瞼を閉づるたび 鳥の見し夢おちてゐる合歓の花 参道の濡れてここより鬼灯市 鷹仰ぐ胸すき透るまで仰ぐ これまで、子育て、たびたびの入院、両親の看取りなど、いろいろなことがありましたが、その折々において、俳句を詠んで思いを吐露することは、私自身への問いかけであったり、確認であったりで、ときには、心の漣を鎮めてくれました。そして、どなたかが拙句に共感して下さったりしたようなときには、それは私の励みとなり、力を授かったように思います。(略) それにしても、俳句は不思議な魅力を持っているものだと、いつも思わずにはいられません。作句を苦しいと思うのは、しばしばのことですが、俳句を手放すことはありませんでした。俳句とは、どこか怪しげな薬草のようなものだとまで思います。これからも、そのような俳句の魔性にとりつかれながら、歩みを続けてゆくことになるだろうと思い、そうありたいと念じております。 「あとがき」の言葉を抜粋して紹介した。 ほかに、 夕東風や別れは人の手をにぎり どこからか夕風のくる白上布 蠅頭のぶつかりとばす穂絮あり 切岸のいつも濡れゐる夏炉かな 馬の眼の濡れて人見る土用あい 病む人に虹見しことは言はずおく 秋風の象さみしさの一塊か 厩出し草にのびたる牛の舌 合歓の花回想は脳を明るうす 白息の重ね合ひつつ馬みがく 本句集の装丁は和兎さん。 インクはほとんどつかわず、材質感をみせる装丁となった。 この金箔の金の色は著者の水野さんが選ばれた。 凝った造本であるので重くれないように。 栞紐は肌色。 洗練された重厚感がある。 一生に余生などなし新豆腐 今生は濁世にあらず白揚羽 この二句に象徴されるように「白」を以て第一句集の完成をみたのである。 そしてわたしは、水野晶子さんの作品世界をあえて一言でいえば、この「今生」という言葉を思う。 いまをただひたすら生きること。それによって自身の生を輝かすこと、そのことに尽きるのではないかとも。 それほど馬鹿食いをしているわけじゃないんだけど、ここ数日をもって体重が一キロ増えた。 今日鏡に自分の側面を映してみたら、ギョッとした。 腹回りがこんなになっているとは。。。 ぴったりしたセーターをすぐにだぼだぼのヤツと取り換えた。 いい歳になったら、ときどきは姿見に前だけでなく側面を映す必要があるわよ。
by fragie777
| 2016-12-01 19:54
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