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11月15日(火) 旧暦10月16日
出勤途中のこと。 うしろから若いサラリーマン風の男子が懸命に自転車をこいでくる。 しかもわたしの車の速さにまけじと追いかけるようにこいでくる。 (ウム、小癪なヤツめ……) と、わたしはアクセルを踏みスピードを上げた。 車はグーンとスピードを増し、彼を大きく突き放した。 (アハハハ! ざまあみろ! 一生こいでな…) 言ってやった、バックミラーにどんどん小さくなっていく彼の姿に。 朝から鼻息の荒いyamaokaなのであった。 句集の紹介記事を紹介したい。 まず、10月26日付の関悦史さんによる「ウラハイ・水曜日の一句」 は、 森澤程句集『プレイ・オブ・カラー』より。 一点のゴリラがぬくし観覧車 森澤 程 観覧車の上からの眺めにゴリラがいる。むろん数は多くはなく、動物園に飼われているものらしい一匹が目に入るのみである。観覧車から外を見下ろすならば視線をはるか遠くに向けてもいいはずだし、ゆるやかに移動するにつれて変わっていく高さのなかから、さまざまなものに次々に視線を向けてもかまわない。 しかしある高さまで来たときに、たまたま目に入ったゴリラは、その黒い裸体を上空から見られていることには、おそらく気づくこともなく、語り手の目を絡め取ってしまい離さない。「一点の」から、かなりの距離をもって眺められていることがわかるのだが、点にまで縮減されたことで、そのなまなましさはかえって強められ、「ぬくし」との体感をもたらし複合することになる。 ゆるやかに大きく回るしかなく、また乗ってしまった客の立場からはもはや統御もきかない観覧車と「一点」のゴリラとは、その持っているエネルギーが全くつりあい、対等になってしまったかのようで、となれば点に集約されたゴリラの方がそのテンションは強い。いわばゴリラに目は支配されている。 高野素十の《ひつぱれる糸まつすぐや甲虫》の、真っ直ぐな糸のようなものが、語り手とゴリラとの間に不意に組織されてしまった格好だが、観覧車はその間にも回り続け、その緊張をゆるやかにはぐらかしてゆく。ほどなく観覧車は地上に戻り、ゴリラは視界から消え去ることになるだろう。それを予感しつつも、語り手は、神の視点じみた高所から、しかし自力で移動することもさしあたりできず、宙吊りになったままだ。 視野への予想外の闖入者「ゴリラ」は、滑稽にも共感にも至ることなくその手前で止められ、語り手と感覚的につながり続けているのである。「ゴリラ」が風景のなかの点として「ぬくし」となりおおせるには、この距離と偶然が必要だったのであり、この奇妙な関係は、俳句という形式と出会うことなしには、気づかれないまま潜在したきりになっていたかもしれない。 句集『プレイ・オブ・カラー』(2016.10 ふらんす堂)所収。 風鈴のひしめく空を食べあます 小津夜景 一見ふつうの平叙文のようにも見えるなだらかな語調に乗せられて、するすると読み下してしまうものの、内容的には細かな転調が次々に繰り出され、異様なイメージを形作っている句である。 「風鈴のひしめく」がまず尋常ではない。「風鈴の見える」ならば、風鈴の下がった軒先を屋内から見上げた景となり、風鈴は一つ二つだろう。それが「ひしめく」で無数に増やされ、さらには「軒」ではなく「空」に直結されることで、空一面に風鈴が下がっている異様な状態を呈する。 そしてその「空」は、あろうことか「食べ」られてしまうのだ。語り手自身が食べていると思しい。しかしそのままスムーズに食べ尽くされることはなく、「食べあます」とここでもまた転調が繰り返される。 不思議なことに(不思議なことずくめだが)、食べあまされることで、かえってそこに漂う感情は満足感に近いものとなり、「空」の無限の広がりが感じられる。「食べ飽きる」という範列(別の選択肢)から一句が身をそらしているためである。この転調=身のそらしようの連続が、さながら身軽なダンサーによる舞踊のようなしなやかな運動感覚を一句にもたらしているのだが、句集の表題が『フラワーズ・カンフー』であることを思えば、舞踊というよりむしろ拳法的なそれというべきだろうか。 「風鈴のひしめく空」は、風鈴という指示対象を透かし見せながら、それを無限化、さらには無化し、実体をそのまま非実体にしてしまう言葉の連なりである。「霞を食う」という慣用句とは異なり、この句では食べる身体の側にまで無限化=無化が及び、空と同質に近いものに変容している。 ただしこれを一概に一方的な非実体化ととらえてはならない。ここで起こっているのは、むしろ非実体的に見える夏空を、実体(大気、光、色、音、温度、湿度、空間……)の相に引きつけながら、遍在する風鈴という非実体化された実体を介して改めて指示対象(現物としての空)からは剥離させ、身体との交通へと導きいれるという、複雑な襞をたたみ込んだ双方向的な事態なのだ。そこに充ち溢れる開放感と幸福感は、未知のものでありながら、ただちに読者の身心に住み入る。 句集『フラワーズ・カンフー』(2016.10 ふらんす堂)所収。 13日づけの毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、中井保江句集『青の先』より。 友よりの不揃いりんご蜜多し 中井保江 かつて「ふぞろいの林檎たち」というテレビドラマがはやった。山田太一の脚本、主演は中井貴一。規格をそれた人物が不揃いのリンゴにたとえられたのだが、以来、不揃いの果物、不揃いの野菜などが見直されてきたように思う。この句では、不揃いのリンゴを送ってくれた友だちも不揃い族の一人だ。句集「青の先」から。 今日の読売新聞の長谷川櫂さんいよる「四季」は、高田風人子句集『四季の巡りに』より。 冬帝のもとの山河よ人々よ 高田風人子 四季を擬人化すれば春は佐保姫、夏は炎帝、秋は立田姫、冬は冬帝。冬将軍ともいう。この句、山河も人々も冬帝の足もとにひれ伏しているというのだろう。冬の青空に高々とそびえ立つ冬帝の姿が見える。句集『四季の巡りに』から。 今日発売の週刊誌「女性自身」に、ふらんす堂の句集がとりあげられている。 週刊書評「今、なぜ俳句がアツいのか」と題して、作家の長嶋有さんと俳人の堀本裕樹さんの対談である。 長嶋有さんは、句集『春のお辞儀』(ふらんす堂刊)を、堀本裕樹さんは句集『熊野曼陀羅』(文學の森刊)をそれぞれ上梓されている。 俳句について自由に楽しくお二人が語っていてすぐに読めてしまう。 それぞれがおススメ句集をあげている。 長嶋有さんは、高濱虚子精選句集『遠山』(深見けん二編・解説)、細見綾子精選句集『手織』(石田郷子編・解説)、山本紫黄句集『瓢箪池』(私家版)の三冊。 堀本裕樹さんは、 大木あまり句集『遊星』、恩田侑布子句集『夢洗ひ』(角川書店)、正木ゆう子句集『羽羽(はは)』(春秋社)、池田澄子句集『思ってます』の四冊。(ふらんす堂刊行の句集が4冊も。) 「すきな俳句は……」という問いに、お二人の写真が吹き出しで答えている。 それのみ紹介したい。 長嶋有さんは、 向日葵が好きで狂ひて死にし画家 by高濱虚子 堀本裕樹さんは、 花の下もの食べ合っていて安心 by池田澄子 いま発売中である。 ふらんす堂の句集もとうとう「女性自身」に登場するようになったか。 堀本裕樹さんが前もって教えてくださっていたので、楽しみにしていたのである。この手の女性週刊誌は、おしなべてわたしの愛読書である。 まったくもって余計なことでどうでもいいことなんだけど、この「週刊女性」の表紙を飾っているボーイたち、何というグループのボーイたちかご存知。 わたしは知っているわよ。彼らのフルネームも言えちゃうんだから。 今日はお一人お客さまがご来社くださった。 山中正巳(やまなか・まさみ)さん、俳人である。 第4句集を刊行すべくご相談にみえられたのだった。 山中正巳さんは、俳誌「野の会」(鈴木明主宰)に長く所属しておられる。楠本憲吉の生前2年前に、「野の会」に入会、的野雄さん主宰の下で野の会の編集長を8年間つとめられた。3年ほど前より「船団」(坪内稔典代表)に入会、いまは「野の会」と「船団」に所属。 「俳句を始められたきっかけは?」と伺うと、 「定年が近付いてきたころ、何かやろうと思いました。NHK俳句を知り独学をはじめたのがきっかけです。そこで楠本憲吉を知り、的野雄を知り、野の会に入会したのです。」と山中正巳さん。 山中正巳さん。 現代俳句協会に所属して、そこでのお仕事もされている。 今年で80歳になられたという。(とても若々しい) 「俳句はあきないですね。虚構ができるところがいい」 今度の句集には、栞に鈴木明、的野雄、坪内稔典の各氏が文章を寄せられるという。 「ここは気持ちのいい町なのでまた来ます」と言ってお帰りになられたのだった。
by fragie777
| 2016-11-15 19:47
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