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11月10日(木) 旧暦10月11日
風邪をこじらせてしまったらしい。 今日はもうぐちゃぐちゃの一日となった。 咳はでるし鼻水は垂れるし、薬でぼおっとなった頭は夢うつつの状態で、 「もう早く帰ってください」とスタッフに言われるしまつ。 「いやだね」と私は言って、机にしがみついたのだが、いつの間にかうつらうつらとしてしまう。 というわけでスタッフたちの冷たい(?)視線からのがれるために、早く帰りたいのでブログを書いてしまおう。 池田澄子句集『思ってます』について、佐藤文香さんが北海道新聞に書評を書かれている。「新しい俳句を拓く『おせっかい』というタイトルだ。 私の師匠・池田澄子は、並外れた「おせっかい」である。不肖弟子の私は常に心配されており、ツイッターで「体調が悪い」とでもつぶやこうものなら、すぐに「安静にしてね」とメールがくる。フェイスブックでは、誰かの誕生日にいつの間にか師匠が「お誕生日、おめでとうございます。よき季節にお生まれね」などとコメントしているのを目にする。 「おせっかい」とは、つまるところ、「他者を思う心」であり、このたびの第六句集『思ってます』は、、まさに池田澄子という人間を表した一冊だ。 ぺんぺんぐさ待たされていて恋のよう 池田澄子 誰かとの待ち合わせだろうか、恋愛初期の恋人との逢瀬のようなドキドキするものではないはずなのに、待たされているあいだ中、その相手のことに思いを巡らし続ける。気がつけばまるで恋であるかのように、その人のことを思っている。足元のぺんぺんぐさがちらちらと揺れて、その淡い思いに加わる。 こんなにも咲いてさざんか散るしかない まさか蛙になるとは尻尾なくなるとは 池田澄子が思いを注ぐ対象は、人間に限らない。あるときは咲き満ちた山茶花の行く末を心配し、あるときは蛙になった元おたまじゃくしの心になりきって自らの体の変化に心底驚く。「咲いて・さざんか」の頭韻と「さざんか・散るしか」の脚韻、「なるとは」「なくなるとは」の畳み掛け。愛が音となって響いてくる。 桐の花うっかり祈っていたるなり ふと気づくと祈っている。いけない、いけない、自分が祈ったところでどうにもならないのだ、いかに桐の花が空を神聖に見せようとも。そう気づいても、また祈ってしまう。池田澄子自身、あとがきで「思いは、何の役に立たない」と記すように、誰かを思ったところで、その人の熱が下がるわけでも、全壊した家が元に戻るわけでもないのに、祈らずにはいられない。その祈りはあらゆる個への祈りであり、誰からも遠く、直に届かないものである。言葉が俳句になるために祈っているようでもある。 俳句で気持を直接伝えようとすると、途端に陳腐なメッセージになってしまう。俳句が手段になってはいけないのだ。ではどうするのか。誰かへ思いを誰かに手渡すために書くのではなく、一度天上に投げ上げるように、新しい作品を書くことにつとめるのである。それは、俳句のために俳句を書くことだ。 俳人・三橋敏雄は、新しい俳句運動のなかにあって、こうも言った。「気負つて言へば私の俳句も、新しくなければならず亦新しくしなければならぬものである。新しいといふ言葉自身は、一面の軽率性を語つてゐるが、言ふまでもなく真個の芸術作品の新しさは歴史を通じて生き得るところにある」(『太古』序より)三橋敏雄を師と仰ぐ池田澄子は、敏雄への愛をも俳句によって示す。師のやり方とは別の、新しい俳句を書くこと。前述の四句も、俳句のリズムの引力のもと、口語俳句という括りにとらわれない日本語表現を行うことで、可憐な立ち姿の作品となっている。 花は葉にそれとも花はなかったか 今見ているのは葉と、少し残った蕊。少し前に桜が散って、この葉桜になったのだろう。いや、もしかすると、花ははじめからなかったのかもしれない。自分は見ていないのだからわからない。季語「花は葉に」を根底から覆す、今までにない俳句だ。 おんころころ町は霞の中そわか 「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」とは薬師如来の真言だが、唱えるときに途中がわからなかったのか、薄目を開けたのか、別の認識「町は霞の中」が挿入された。呪文のなかに立ち現れる景色にだけピントが合ったような、しかも何度でも唱えたくなる妙な存在感。こんなのも、見たことがない。 俳句への最大の「おせっかい」とは、俳句の可能性を提示しつづけることである。池田澄子の「思いすぎる力」が、新しい俳句を切り拓いてゆく。 長いが全文を引用した。 この文章を書きしるしながら、マスクのなか鼻水が三度ほど垂れた。(もうグシャグシャ) そして二度ほど咳き込んだ。 そんな時、池田澄子さんより仕事のことでお電話をいただいた。 「あなた、風邪、大丈夫?」とまず言ってくださる。(他者を思う力のある方だ、わたしの風邪まで心配してくださる) 「ダメです。よくありません」とわたしは思わず訴えてしまったのだった。 いまはヴィックスドロップ(グレープフルーツ味のやつ)を舐めながらこのブログを書いている。 今日は午後、お客さまがふたり見えられた。 須田冨美子さんと伊藤昌代さん。 須田冨美子さんは、昨年ふらんす堂より第二句集『まなざし』を刊行された俳人である。 伊藤昌代さんは、須田さん御指導の句会に参加されている俳句のお仲間である。 この度、伊藤昌代さんが第一句集を刊行されるにあたり、そのご相談に見えられたのだ。 伊藤さんは、目下ご主人の介護の日々を送られている。 今日もその介護の合間をぬってご来社下さったのである。 俳句はおよそ20年間作り続けて来られた。介護の大変さで俳句を続けていくことが大変になったと思った時に、須田さんより句集上梓をすすめられ、これまでの作品を一冊にまとめてみようと決心されたのである。ご主人も句集上梓については賛成しておられ、楽しみにされているということである。 今日はいろいろな見本をご覧になって、ハードカバーの造本をお選びになられたのだった。 「介護の大変さってね、経験した人でなくては分からないと思います」とつくづくとおっしゃったのだった。
by fragie777
| 2016-11-10 18:10
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