|
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
10月14日(金) 旧暦9月14日
![]() ここには長靴を履いたyamaokaが映っている。 あはっ。 ブログを書き始める前に急にお腹が減ってしまい、いまお菓子処に行ってガサゴソしてあられ煎餅をつかめるだけ掴み出した。そしてむしゃむしゃと食べている。 なんとか落ちついた。 さあ、新刊紹介をしよう。 好きな俳人である。 本句集『遊星』は、大木あまりさんの第6句集となる。既刊句集は『山の夢』『火のいろに』(牧羊社)『雲の搭』(花神社)『火球』(ふらんす堂)『星涼』ふらんす堂。前句集『星涼』では、第62回読売文学賞を受賞されている。第2句集の『火のいろに』はわたしが出版社勤めときに編集担当をし、それ以来いろいろとご縁をいただいている。ふらんす堂からは、『風を聴く木」という詩画集も上梓されている。 大木あまりさんの俳句の世界はその表現の卓抜さにおいて比類がないといってよいほど、独自なものを持っている。切れの良さによって世界を構築し、巧みな比喩によって世界の奥行をみせる、天性の詩質が備わっていると言ってしまえばそれまでだが、大木あまりの俳句世界は伸縮性があり弾力に満ちている。 そして何よりもわたしが魅了されるのはその目線の低さである。 野兎と別れて青き踏みにけり あめんぼのやうには淡く生きられず 躓くや涼しき尾つぽなきゆゑに かなかなとゐてすこしだけ賢くなる 拭き取るに覚悟がいるぞ冬の黴 蝶のごと生くるは難し火を使ふ 対等でゐよう春暮の鴉とは ブローチのごと本に置く蟬の殻 猫じやらしのやうに頭を振り否と言へ 羽音なき小虫よメリークリスマス 水鉄砲ひとりよがりの我を撃て 夜明けには帰つてゆきぬ守宮の子 昼の蚊の縞あざやかや机拭く 風の日の蛇に会ひたくここにゐる 草の香の土塊と年惜しみけり 龍の玉より艶めきて団子虫 あたたかき猫の尾ときに切なくも 昼顔の伝言なれば聞きたしよ 月光の守宮と握手してみたく 日常のなかで我々が擦過してしまうような小さな生き物たち。そのことごとくが大木あまりの心を捉えるのだ。その生き物とたちと詩人の心は通い合って俳句が生まれる。彼女にとってこれらの生き物は俳句の材料ではなくて、大木あまりの生を充たすものなのだ。こんな風に小さな命を俳句に詠んでみせる俳人をわたしは知らない。このことは大木あまりにとって俳句の方法であるというよりも、生きることを肯うものとなっている、と私は思っている。人間の尊大さへの批評とも受け取れるものだ。 愁ひより怒りの春のショールかな 青嵐や無用なものに我と井戸 椅子に姉畳に姉や柿の花 めいめいに優しきことを言うて冬 着ぶくれて鮞そんなに釣らずとも 手さぐりの先に枕や寒月下 アイマスクして梟を思ひをり 初夢や流浪の我の頭陀袋 痛み止め飲む寒鵙の声がまた 死は一字夢も一字や野鵐(のじこ)鳴く 人よりも獣しづかに花八つ手 イグアナのうすき瞼や神送り 春は曙枕を踏んで水飲みに 手も足も我の持ち物南風吹く 魔が差すといふは螢の光るとき さよならは朝顔に水あげてから 海に花火打ち揚げたとて帰らざる つまらない荒野つまらない秋です 人類はやくかいなもの蠅叩 小さき小さき我台風の忘れもの 湯気立てて凄い俳句を作るべし マスクして愁ひは春のものならず 軽やかに死を告げに来よ春の雪 ぶらんこを降りて憂き世と闘はむ 白玉や箸か匙かと決めなされ 鶏頭の風は甍に移りけり 死神は美しくあれ膝毛布 一句の世界の伸びやかさ、季語の据え方の斬新さ、定型を自在に楽しんでいる。世界で最も小さな詩の器のなかで大木あまりはまったく自由である。しかもその詩心は物の手触りを決して放すことはしない。すべてそこから出発している。 およそ二〇一一年から二〇一五年の冬までの四〇七句を収録。大胆な割には、いつも迷い混沌としている私には『迷星』のほうが合っているのだが、公私ともに辛いことがあった歳月の中で、なるべく遊び心を失わず自在に作句してきたので、句集名を『遊星』とした。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装幀は和兎さん。 なす紺というか紫というか、この独特の色を大木あまりさんは気に入ってくださった。 文字を銀箔、あとは銀色で刷る。 同じ紙である。 見返しも同じ。 装画となった動物たちを大木あまりさんは特に喜ばれた。 左端の動物のお腹をみて、「このお腹、食いしん坊のわたしが食べ過ぎたときのお腹そっくり」って嬉しそうなあまりさん。 「気に入って何度も何度も眺めているの」とお電話のたびに言ってくださるあまりさん。 この用紙はもう誰にも使ってほしくないとも。 (実はこの用紙、このあと在庫切れになってしまって、製造にはすこし時間が掛る様子) 凍星に触れたく米を研ぎにけり 終りから二句目におかれた句。 この句をみて、たとえば〈さくら咲く氷のひかり引き継ぎて〉や〈後の世に逢はば二本の氷柱かな〉などの句を思いだしたのだが、大木あまりさんの抒情の特質のひとつにこの「凍星」のように氷の冷たさに通うものがある。米を研ぎながらもその心のどこかは宇宙の星と、それは永遠性と言ってもいいのかもしれないが、そこに繋がっていたいという思い。それが大木まりの詩情だ。その永遠性とは決して甘いものではなく大木あまりにとっては氷のように冷たく透き通った非情のものであるかもしれないのだ。この「凍星」のように。この「氷の詩情」があるいは大木あまりという俳人を貫いているのかもしれない。 ちょっと余談であるが、この『遊星』のことが話題になったとき、大木あまりさんの不思議な魅力について、Pさんが「あまりさんは、スプーンおばさんみたい」って言った。 「スプーンおばさん」ってご存じ。 むかしNHKで放送されていたアニメで、突如ティースプーンほどの身体が小さくなってしまい、動物たちと会話ができてしまうという異常体質のおばさんが冒険するお話。 「スプーンおばさん」と大木あまりさん、 ああ、似てるかも……と私たちは楽しく語り合ったのだった。 あまりさん、なんとおっしゃるかしらん。 さらに余談であるが、俳人の高柳克弘さんはカラオケで歌えるのがこの「スプーンおばさん」のテーマ曲のみということ。 高柳さん、ばらしてしまってごめんなさい。 で、 そのテーマ曲とは、こちら。 ↓
by fragie777
| 2016-10-14 21:39
|
Comments(0)
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||