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9月28日(水) 旧暦8月28日
刻まれている英字は何を意味するのだろう。 今朝の東京MXテレビのモーニングクロスで、書店についての話題が上がっていた。 コメンテーターのお一人中央公論社の学芸部長である三木哲夫男さんが、これらのあるべき書店像をパネルで説明をしている。 書店とネット販売で本を買う違いはなにか。 書店とは「人生の可能性を広げる」場所である。 書店空間をとおしてわたしたちは、 ①多様性への誘い ②知らない世界を知る ③知らない自分に出会う ④答えは一つではない ということを経験し、「新しい自分の可能性をつかむ」ことになる。 これからの書店は、ただ本を売るだけでなく、そのような魅力ある空間として展開していかなくてはいけない。 (へえーっ…)と、わたしは、納豆をかきまぜていた手をとめて、しばしテレビに見入っていたのだった。 新刊紹介をしたい。 著者の帆刈夕木(ほかり・ゆき)さんは、昭和40年(1965)年新潟生れ、東京都在住。平成2年(1990)に「鷹新人スクール」入学、平成4年(1992)新人スクール卒業と同時に「鷹」入会。平成8年(1996)「鷹」同人。本句集は、「鷹」で学んだ25年間の俳句335句を収録した第一句集である。序文を小川軽舟主宰が、栞を神野紗希さんが寄せている。序文より抜粋して紹介したい。 ポケットの焼栗自由にして孤独 思えば帆刈さんは実に長い間ずっと「鷹」の若手だった。二十代、三十代、四十代と二十年以上にわたって若手であり続けた。若手は俳句結社にとって貴重な存在である。若いというだけでちやほやされもする。ところが、帆刈さんという人はどうやらそうされることを好まなかったのである。若さで媚びようとはしなかった。むしろ若さを恥じらうように一歩退いて静かにほほえんでいた。不思議な人である。 (略) われと古る百科事典や夜の秋 生きてきた時代への郷愁をほのかに香らせながら、若さと静かに別れてゆく時間の陰影が一句一句に移ろう印象がある。「われと古る百科事典や夜の秋」を帆刈さんの投句に見出したとき、帆刈さんもこんな実感を抱くようになったのかと感慨深かった。(略) 芝に影落として秋の行きにけり 帆刈さんはこのとき芝生に何を見たのだろう。それは何とも名状しがたい秋の余波(なごり)のようなものだったのだろう。それでも今書き留めておかなければ、あと何日かするとすっかり冬めいて消えてしまうものであるに違いない。この句には去りゆく若さへの愛惜の念が籠められているのだと思う。過ぎ去ろうとしてなお、その余波は爽やかだ。 いそしみて干潟の時間雲移る 帆刈さんはこの句から句集名をとった。生々流転の諸相を眺めて干潟に立つ帆刈さんの姿には、慈愛と安寧と、そして自信が感じられる。もっと早く句集を出すよう何度も奨めたのだけれど、帆刈さんは確信をもってこの時を待っていたのだ。 帆刈という苗字と、湘子が与えた夕木の雅号。帆刈さんはこの美しい名がほんとうによく似合う女性になったと思う。 栞を寄せた神野紗希さんは、「涼しき彼方」と題して、この句集の涼やかさに瞠目する。抜粋して紹介したい。 月山と書きて涼しき机かな 月山といえば『奥の細道』の〈雲の峯幾つ崩れて月の山〉を思い出す。机に向かって月山と書き出したのは、私か、三百年前の芭蕉その人か。はるかな月山を、はるかな芭蕉を思うとき、心は距離からも時間からも自由になり、涼しさのなかに解放される。どちらの句も、彼方を思う心が、涼しさという感覚に重ねられている。夕木さんの句に満ちた清らかさと一抹のさびしさは、この、彼方を思う涼しさから発生しているのではないか。 白樺に鉄路さびしや夏帽子 草の絮人恋ふ鳥をさびしめり 鳥帰る汀の石のみなまろし 粒胡椒碾く手応へや山に雪 さやけしや文鳥買ひて誕生日 虹消えて物書く時間馥郁と 「馥郁」の語で、虹を見終えたあとの豊かな気分をいいとめた。虹は消えても、心に虹は在る。その心の虹が、物を書かせるのだ。 彼方を思うとき、人は〈いま、ここ〉を否定しがちだが、夕木さんは違う。ここにいる私を肯定しつつ、彼方に心遊ばせている。〈いま、ここ〉がなければ、旅にあくがれる心も、涼しき彼方も存在しない。日々旅にして旅を栖とす。夕木さんは、涼しき彼方を恋う旅人なのだ。 ほかに 朝顔や海へひろがる隅田川 畳の目細やかに秋立ちにけり 画架にある未完の吾や草の花 胎内のうつろひびける冬の海 寒林やくちづけの唇つくりたる お嫁さんとは我のこと浮いて来い 天使魚や世界の天気見て眠る 靴よりも木型うつくし秋の昼 扉を押せば枯園へ楽あふれ出づ 心すこし後れて歩き春の雲 ヒヤシンス一気に布を裁ちにけり 避暑期去るきれいな色のみすゞ飴 ひるがへる魚に音無し春の昼 後添になりしと聞きし夏の月 家族四人豆腐一丁夕蛙 石蕗黄なり働きたくて働ける 干蒲団海光に何はばからず 平成二年春、「鷹新人スクール」の第一期生として俳句を始め、平成三年三月号の「鷹」に初投句。以来、二十五年間の俳句三百三十五句を、第一句集としてまとめました。 四十代の半ばくらいから、そろそろ句集を、と勧められていたのですが、なかなか思いが固まらずにおりました。「代表句を持とう!」とは、生前藤田湘子先生がおっしゃっていた言葉ですが、最近ようやくそれらしき自分の句を持つことができたかな、と思えるようになったこともあり、重い腰を上げて、このたびの出版となりました。(略) 人生の時間は有限で、その有限な時間の中でも、活動している時間はほんの一時のことです。その一時、いそしんで、人生の時間を満たして行きたいと思います。 「あとがき」より抜粋して紹介した。 本句集は「赤のシリーズ」の一巻として刊行された。 装丁者は和兎さん。 すっくと美しい表情をしている。 本句集の担当は、Pさん。Pさんが好きだと選んだ9句である。 ひろびろと机使へり今朝の秋 帰り花少女は歩きながら読む 胎内のうつろひびける冬の海 寒林やくちづけの唇つくりけり 卒業のリボンのほどけやすきかな 春浅きうがひのこゑはラ行なり 郭公や男に習ふオムライス 一杯の水に悪寒や鹿の声 汗引くを待ち一冊の本を抜く 充実した句はたくさんあるのだが、わたしはあえてさりげない次の一句にこだわってみる。 日向ぼこ輪ゴムが飛んで来りけり なんだか面白い一句だ。日向ぼこと輪ゴムの親和性がいかほどかよく分からないが、この二つはよく響き合う。どうして輪ゴムが飛んで来たかは不明であるが、日向ぼこをしていると輪ゴムって飛んできそうな感じしません?悪戯小僧が日向ぼこをしているおじいちゃんたちに輪ゴムをとばしたのかもしれないけど、日向の輪ゴムはそう痛くないはず。飛んでくるものが輪ゴムならどこか長閑で、われらの市民社会はひとまず安泰でいられそうだ。 「船団の今日の一句」は、『季題別西村和子集』より。 草の花摘みながら来し道のほど 西村和子 このご本、わたしもいただいていたので(まだお返事をさしあげていない)、(ひゃー、西村さん、そんな素敵なことあったの!)とさっそく横に積んである一冊をとりあげた。ふむふむ。そうか。羨ましいぞ。そして本文をしばらく読む。『徒然草』に登場してくる季語を知るというだけでも面白い。俳人ならでは切り口が光る。 「ウラハイ=裏「週刊俳句」の関悦史さんによる「水曜日の一句」は、鈴木明句集『甕』より。 白歳月(しろさいげつ)を埋めよう白ふくろうを育て 鈴木 明 その「白歳月」は「白ふくろう」を育てることによって埋められるものであるらしい。同一である「白」の部分を仮に約してしまうと、「歳月」と「ふくろう」がほぼイコールということになるが、これだけ別次元のものをいきなり等価交換の場に持ち込むには、やはり茫漠たる空白とものの色彩の両方に通じる「白」との化合は必須なのだろう。「白」はいわば現実的制約の場を離れたところに開けた通路である。 失われた歳月を何か別のもので補償するとなれば、裁判沙汰では金銭に換算されることになるが、ここでの「白ふくろう」は、もっと知性と感情の両面から心を満たしてくれそうである。そればかりではなく、育てた結果(それは飼い主もともに育つということだ)、別種の幸せに通じる回路を開いてもくれそうである。 見るからに手触りのよさそうな白ふくろうの姿かたちと、妙に人くさい顔つきがわれわれに引き起こす感情を正確に言葉に置き換えたら、それは埋めあわされ、満たされた「白歳月」ということになるのかもしれない。いや、置き換えなどというものではなく、これは飛躍である。飛躍によって切り開かれた空白こそが幸福の空間なのである。語り手が「埋めよう」と呼びかける自他いずれともつかない相手もこの「白」のなかにいる。これが語り手自身への呼びかけであったとしても、「白ふくろう」を育てた先には、浄化されるように変貌を遂げた己の姿が待っているはずだ。それは「白」のなかに既に予見されている。 この句集は出来上がったばかりで、このブログではまだ紹介をしていません。 ドイツ装函入りのすごくかっこいい句集です。 関さん、はやばやとご紹介ありがとうございます。
by fragie777
| 2016-09-28 20:24
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