|
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
9月25日(日) 彼岸明け 旧暦8月25日
午前中は更衣。 今日しておかないと時間がもうとれないことに気づいたのだ。 物持ちが良いということは、実は物を捨てられないということで、いろんなことには思い切りの良いyamaokaであるが、どうも衣類については思い切りが悪く、20年くらい前のものでも大事に着ているのである。 今年着なくても、来年はきっと着るんじゃないかなどと思い捨てられず、そんなこんなでかなりのな量の洋服がある。 つくづくと思ったのだけど、捨てられないというのは、もったいないと言う気持より、自分の着ている洋服一枚一枚を愛してるんだっていうこと。すごく愛着があるの。たとえば裏地がボロボロになった黒の襞スカート、30年以上の前のものだけど、まだ穿いている。気に入ってるしすこしも型くずれしていないし、そしてわたしはスカートを買ったときのわたしと全然変わっていないのよ、中身はね。外側は偉く変わったのかもしれないけど、なにしろそういうことについてえらく楽天的だから、30年前の中身のわたしがまだ生き生きとあるっていう感じがする、そういうことも愛着のひとつかもしれない。30年の間にそりゃ人並にいろんなことがあったけど、変わらない何かがある。不思議なんだけど。へンかな、わたし。まっ、いいや。 だから捨てるときがたいへん。ゴメン、ゴメンと何度も謝りながら別れを惜しむ。 わたしの一部を捨てるみたいだ。 今日も何枚かと別れを惜しみつつの更衣だった。 昼から仕事。 ブログを書いたあとも仕事をしていくつもり。 さて、「現代詩手帖」10月号の田島健一さんによる句集評は、「『読む主体』について」と題して、池田澄子句集『思ってます』について。 イケスミ俳句の現代性とは何か。 とあるのだけど、このイケスミっておわかりだと思うが池田澄子さんのことである。 わたしはちょっとこういう言い方が馴染まないのでドキッとしてしまった。 そもそも氏の作風の特徴は、作者としての間に第三者的主体が想定される点にある。〈じゃんけんで負けて螢に生まれたの〉〈ピーマンを切って中を明るくしてあげた〉などの代表句にも見られるように、口語独特の呼びかけは、直接読者へではなく想定された「誰か」に向けられる。 たとえば本書に掲載さえれた作品の作成時期は東日本大震災とも重なっており、句集のタイトルのもとになった〈春寒の灯を消す思ってます思ってます〉の句もそうした作品のひとつである。 (略) 「思ってます」ということばの宛先は読者ではない。それは震災の被害者たちの魂かも知れないし、あるいは同時代を生きる日本人全体かも知れない。池田澄子はそうした〈他者〉に向けて「思い」を呼びかける。結果的に〈他者〉に呼びかける澄子を側面から眺めることで、読者は澄子の呼びかけを聞きとる。このとき、〈他者〉は読者の代理として澄子のことばを引き受けてくれる。言わば読者は自分の「読む主体」を〈他者〉に預けるおとで、作品と自分自身の現実との差を保留しながら、作品を堪能することができる。 イケスミ俳句の「読み」のプロセスにおける現代性はこれだ。 (略) イケスミ俳句は「思い」が役立たない世界だからこそ、読者に特別な感興を与える。池田澄子がこの現実世界に傷つけば傷つくほど、その作品は読者に受入れられていくのである。 アマリリスあしたあたしは雨でも行く 澄子 抜粋であるので、すこしわかりにくいかもしれないが、全文を引用することは控えたいのでご容赦を。 友人のフランス文学者の高遠弘美さんが一冊の本を送ってくださった。 『乳房の神話学』ロミ著 高遠弘美訳 (角川ソフィア文庫) この本は、1997年に青土社より刊行されたものを角川ソフィア文庫の一冊として文庫化し刊行されたものである。 ロミという精力的なフランスの歴史家かつ小説家の「乳房」への歴史的、文学的な壮大なる考察を、沢山の図版とともに辿っていくもので、その博覧強記には舌をまくほどである。また押し寄せる乳房の図版に目がくらくらしてくる。 読み始めて、本来「乳房」とはエロティシズムの対象としてあったのではなく、古代においては豊饒なるものの象徴としてあったらしい。だから乳房はおおらかに開放的であけすけなものとしてあった。豊饒なるものの女神として描かれてものが、「神話の神々を描く際に、エロチシズムの影がはいりこんだのはアプロディーナが新たな神格を持ち始めてからだった」とあり、へえーっと思った次第。 そんな風に「乳房」をめぐる発見に満ちた一書である。 文庫本化されることによって、さらに多くの人に読まれていくことを願いたいと思う。 およそ20年ぶりに復活したことを訳者の高遠弘美さんとともに喜びたい。 さらに嬉しいのは、文庫化するにあたって、ふらんす堂よりかつて刊行した高遠弘美著『乳いろの花の庭から』の「乳いろの花の庭から」が巻末に収録されていることである。 この一文は、「ロミのために」という副題が付けられているように、ロミに倣って高遠弘美さんが、日本文学における「乳房」に焦点をあてて文学に読まれた「乳房」を紹介しているものだ。 プルーストの名訳でも知られる高遠さんであるが、その文章も流麗だ。 ただし、その際、古典作品は敢えて省き、近現代に絞ったことに加え、小説の引用をなるべく少数にとどめ、詩歌の花壇を中心に小さな散策をするにとどめたことはお断りしておかねばならない。 (略) また、詩歌を多く引いたのは、乳房なるものが際立ち、乳房の表現が読後も記憶につよく残るのは、性愛の場面を具体的に描くことの多い小説の類いよりむしろ、性愛その他を象徴的に表現する詩歌のほうではないかと愚考してからにほかならない。 ということで、ここには小説のほかに詩、短歌、俳句における「乳房」が沢山登場するのである。 堀口大学の詩からはじまり、萩原朔太郎から吉野弘まで、あるいは塚本邦雄の短歌や木下利玄、牧水、赤彦などなど、そして俳句、わたしたちの知っている桂信子や西東三鬼、富澤赤黄男のみならず、多くの俳人が「乳房」を詠んでいる。草田男、楸邨にはその句が多い。二句紹介したい。 たわたわと乳房揺るるや昆布干し 楸邨 子のための又夫のための乳房すずし 草田男 本著の高遠さんによる「訳者あとがき」をすこし引用して紹介したい。 ロミはいわゆる学者ではない。評論家ですらないだろう。好きなことはいくらでも調べて書くけれど、為にするようなことは決して筆を染めないし、頭でっかちな書生論とはもとより縁がない。世の常識に縛られることもない。あえて言えば「突飛なる市井の反画一主義的歴史家」。それがロミなのだ。 そういう歴史家が拠って立つのは飽くまで具体的逸話であって、小賢しい理論や理屈ではない。理論などすぐに次の理論に取って代わられる。様々な意匠、とでも言おうか。ヴィリエ・ド・リラダンではないが、理論など家来に任せておけばいい。ロミは小声でそう呟いているような気がしてならない。逸話はそうした変化の波をかぶることなく、人の世の歴史のあちらこちらで闇のなかの燐光のように光っている。逸話の放つ力は意外に強靱である。逸話はときに寸鉄人を刺す力を発揮する。(略)ロミが提示する逸話や図版は、どれも同列に並べられている。マリアの乳房に手を伸ばすイエスも、若い娘の乳房に触ろうとしている老人も、ルイ王朝時代の逸話も現代のヌーディスト運動も、乳房にまつわるカリカチュアも、どれが上等でどれが下劣という意識はなく、すべてが等価値の例として「この謎なるもの」乳房を讃える役割を果たしていると言えばいいか。 とは言うものの、逸話集成という形で何かについて語るという仕事は、途方もない時間と労力を必要とする。関連する逸話や図版がどこに転がっているか皆目わからないからだ。暗闇のなかを手探りで進むしかない。著作のほとんどでそのスタイルを通したロミに、私は今さらながら深い共感と深甚の敬意を覚える。 この「訳者あとが」を読みながら、かつて『乳いろの花の庭から』の序文に寄せた作家・中村真一郎の言葉を思い出していた。彼は高遠弘美さんを、「巨大な逸脱者」と呼んだ。 しかし、あらゆる逸脱者は、貪欲にせよ、感傷にせよ、博学にせよ、覗きにせよ、逸脱そのものによって極端となることで、世俗性を脱して聖者となる。 「逸脱者」 良いではないですか。。。。。 今日は、焼肉をおごるって約束してある。 仕事をしてゆくつもりだったけど、 もう行かなくてはならない。 じゃ。。。。
by fragie777
| 2016-09-25 20:07
|
Comments(3)
山岡喜美子様
いつもご紹介とご推薦、まことに忝く存じます。中村真一郎との関係は、山岡さんを抜きにしては考へられません。感謝してをります。
0
こんばんは。
いまだに高遠弘美さん訳の『失われた時を求めて』が見つからず……ネット注文とか怖くて出来ない私は近くの本屋をうろうろ探しています。本は本屋で自分で見つけて買いたいので……今日紹介していただいた本はあるかな~と明日本屋さんにいって探してみます。 乳房で思い出すのは、以前どこかで読んだ中学生かな、女の子の詩で「お母さんのおっぱいはやる気がない 私のはやる気がある」みたいな作品です。私のはもうだいぶ前からやる気がないです(-o-;) 今日は暑い1日でしたね。お身体に気をつけて下さい。
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||