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9月14日(水) 待宵 旧暦8月14日
蓮池。 蓮の花はもう咲いていなかった。 装幀について書かれた本は多い。 わたしがふらんす堂をはじめて、まず手にしたものは菊地信義の『装幀談義』である。 これはいま文庫化されてちくま文庫から出ているが、わたしが手にした本は、46判のやや細身の薄表紙の上製本、なかなかスマートな一冊だった。 この本を付箋をつけながら何度も読んだ。 装幀という仕事の大切さを学ばせて貰った本である。 装幀について、最近手にした本は鈴木成一の『鈴木成一デザイン室』という一冊。 30年にわたって装幀の仕事を第一線でしつづけてきた鈴木成一が、自身の作品を挙げながらその一冊が出来上がるまでの舞台裏を製作技術ととも明かしている本である。 その装釘のありようの多彩さに目もくらむばかりである。 畢竟、読み終えれば鈴木成一の装釘哲学にふれることになる、というものだ。 本著のまえがきの言葉が、「本というもの」の存在意義を語っていて興味深かった。 その一部を紹介したい。 手の実感が「物」の魅力を生む 本はポスターのように遠くから眺めるものでもなく、スマホやタブレットで眺めるデジタルのデータでもなく、あくまでリアルな物です。それをデザインする際も、パソコンは大いに活用しますが、まず何より優先したいのは「物」としての「驚き」や「感動」です。それには人の手による実感が何より大切です。パソコンを使って作るようになっても、最終的には「本」という物体――手に取られる「物」を作るということに変わりはありません。「物」としての存在感や、手に取ったときの迫力、ゾクゾクする感じ、物理的な感触が重要なわけです。(略)それは平面的なものの組合わせから始まって、あたかもひとつの人格にも似た立体物として、あるいは人間の外側にあって自立する「精神のかたち」として、本をそのように成り立たせるための努力と言ってもいい。そういう執着が「見せるべき何か」となり、魅力的な「物」に行き着くのだと思います。 その不自由でおもぼつかない手探りの時代が、「本」が「物」として、存在させることのかけがえのなさを教えて繰れていたのも事実です。否、そういう時代だからこそかけがえのない「物」を必死に作ろうとしていたのではないでしょうか。それはパソコンでシュミレーションをするようになった、今だからわかることなのかもしれません。 パソコンという最新最強ツールを駆使しながら、人間の手が実感する「物」としての本を作る。 ふらんす堂の本作りもそうでありたいと常々思っている。 中岡毅雄さんが、共同通信発の地方新聞評に、池田澄子句集『思ってます』を取り上げて下さった。 紹介したい。 池田澄子第6句集『思ってます』(ふらんす堂)は、近来出色の一巻である。池田は、1939年生まれ、現在、80歳だが、その詩心は冴え渡り、加齢による衰えとは無縁。定型の可能性を極限まで追求し、爽やかで見事なレトリックを披露してくれる。 アマリリスあしたあたしは雨でも行く この句は、内容だけでも、清新な感覚へ誘ってくれる。しかしながら、その修辞を分析していくと、その自在さに驚かざるを得ない。 俳句は通常、文語体で語られる。その対し、池田の句は口語体だが、凡庸な作品にありがちな稚拙さを微塵も感じさせない。一句の文体は、自然と心に馴染んでくる。 さらに、「アマリリス」「あした」「あたし」「雨」の「あ」音の頭韻。あたかも、雨垂れの音のようにひびきあっている。それだけではない。「あした」「あたし」の音の組み替えによって、意識下に、軽い幻惑を伝えてくる。 池田の句の凄みは、それらの多様な言葉のテクニックを、作為的と感じさせず、直接感性に訴えかけてくるところにある。 少し古いけど風邪薬ですどうぞ この句など、意味自体は、何ということはない。取り立てて、俳句にしてみるほどのことはないだろう。けれども、池田は、この句においても、定型に組み込まれた言葉の面白さを体験させてくれる。 掲出句を定型上見てみると、「スコシフルイ/ケドカゼグスリ/デスドウゾ」となる。上五は字余り。上五から中七にかけては、句またがり。中七から下五にかけても、同様。およそ詩性とは無縁である内容が、575の俳句の枠組みの中で、伸縮自在に述べられ、心地よい読後感を伝えてくる。 ぼうたんとゆっくり言ってみて日暮 視覚的な華やかさと甘美な匂いは、それだけで幻想的な趣があるが、池田は17音のうち14音までを、牡丹に関する内容で使ってしまう。残されているのは、わずか3音。そこで牡丹のイメージは、「日暮」の暗さへ、突如、反転させる。 時には定型を逸脱しつつ、最終的には、定型に回帰していく言葉の伸びやかさ。池田の句は、口語俳句の新たな可能性を感じさせる。 池田澄子さんが80歳であられるとは、、、、 改めて驚く。 作品はそれが作られた著者の年齢などははるか彼方に蹴っ飛ばして、一人歩きしていく。 アマリリスあしたあたしは雨でも行く この句、まるで大島弓子さんの作品に登場してくるような少女が、ちょっと意気込みながら肩をいからせて歩いていく、そんな姿を彷彿とさせる。 そしてその少女にわたしの中の少女が重なっていく。
by fragie777
| 2016-09-14 19:34
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