カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
8月23日(火) 処暑(しょしょ) 旧暦7月21日
処暑とは、暑さが止むという意味であるということ。 立秋と白露のちょうど中間にあたり、残暑厳しき台風シーズンの頃となる。 「なあに、このボール?」と、わたしは尋ねた。 なんともきれいなボールである。 「バレーボールのボールですよ」 「へえー! 今のボールってこんなに美しいの…」と驚いて手にとってみた。 軽い。 ところで何故に仕事場にバレーボールのボールがあるのだろう。。。 どうやらスタッフの一部で流行っているらしい。 仕事が終えるとそさくさと帰るスタッフたちがいるとおもったら、ああ、そういうこと。 まあ、いいんじゃないですか。 大いに働き、大いに運動し、大いに汗を流してもうらいましょう。 積み上げられている本の上に乗せてみたら、しばらくとどまり、転がっていった。 運動といえば、高校野球は作新学院が優勝した。 わたし以外のスタッフたちはテレビの前に釘付けで応援していたらしい。 わたしは間抜けなことに翌朝知ったのだった。 去年は、スタッフの文己さんの弟も作新学院のキャッチャーとして活躍し、文己さんのみならずPさんまでが甲子園に行って高校生諸君に混じって応援したのだった。 今年の優勝をわたしたち全員が喜んだことは間違いない。 新聞掲載記事を紹介したい。 まつば東京新聞の小川軽舟さんによる「俳句月評」は、池田澄子句集『思ってます』と大牧広句集『地平』の二冊についてだ。タイトルは「父母世代の声」。 今年もまた八月が来た。広島、長崎の原爆の日と終戦の日。戦争を知る世代が年ごとに老いていくことを映像で知る。その世代に二人の句集、昭和六年生まれの大牧広『地平』(角川書店)と同十一年生まれの池田澄子『思ってます』(ふらんす堂)を読んでみよう。私事だが筆者の父は大牧と、死んだ母は池田と同年生まれ。二人の俳句は親の世代の声と聞こえるのだ。 〈三月が来るたび焼夷弾想ふ〉大牧にとって戦争の記憶といえば三月十日の東京大空襲。〈臍の緒は空襲で焼け桐の花〉、あらゆるものが焼けた中に小さな桐箱に入った自分の臍の緒もあった。臍の緒でつながっていた母を懐かしむ気持が桐の花に映える。そして戦後である。〈はるかなり進駐軍といわしぐも〉、同じ季語で〈頻尿の落ちついてゐしいわしぐも〉が出てくるのがせつなくもおかしい。進駐軍に始まる戦後のはるかな道のりの果てに老いて頻尿に悩む自分の姿がある。 大牧の俳句は懐旧にとどまらず日本の今に向かう。〈昔ほど目の澄みてゐず新社員〉〈冬木立貝になりたい人ばかり〉〈東京は外資にまみれ底冷えす〉、いつからこんな日本、こんな日本人になったのか。大牧の俳句は老人のぼやきと見せて直情で押す。その一方で〈買つてきし葱をつめたい場所に置く〉〈仏壇に何か倒れて盆終る〉といった日常詠にふと我に返ったような寂しさがある。〈ふらここに昭和の軋みありにけり〉、高度経済成長の昭和しか知らない世代に「昭和の軋み」を伝える句集だと受け止めた。 池田の昭和はどうか。〈憎らしき昭和懐かし蜜柑に種〉は池田独特の照れ隠しだろう。なぜ、憎らしいのか。〈八月や満州で父の死んだ八月〉、少女だった池田のもとに戦地の父は帰らなかった。その無念が他者への思いやりとなって池田の俳句の明るさを支えているように思う。 〈春寒の灯を消す思ってます思ってます〉は東日本大震災直後に詠まれた。池田の俳句は文語と口語を自在に織り交ぜた文体に特徴がある。被災地を遠く離れて「思ってます」としか言えないが言わずにいられない。〈アマリリスあしたあたしは雨でも行く〉〈此処あったかいよとコンビニエンスストアの灯〉自分を励まし、他者を励ます。理屈ぬきの勢いで読者の心を前に向かせてくれる。 〈歯を磨きながら雨かと春の宵〉、なんでもない句がだが今の池田の真顔が垣間見える気がした。何気なく詠んでいるようで、「雨か」という心の中の独り言がポツンと浮いてみえるところが巧い。〈煮返しておでんは匂わすたび老ける〉、くたくだになった竹輪や大根に自分を重ねたか。「老いる」ではなく、「老ける」とした気取りのなさが池田らしい。池田が八十歳になったかと思うと感慨深いが、〈わが晩年などと気取りてあぁ暑し〉と詠む池田自身、まだ晩年が身に添わないようだ。 おなじく東京新聞の「句の本」というコーナーで前田地子句集『跫音』がとりあげられている。 大地より賜るわが名雪割草 前田地子 わが雛を盗る纏足女つどひ来て 背なの児の死しても歩く草朧 銀漢や膝抱き眠る無蓋貨車 旧満州に生まれ引き揚げを経験した著者が、人生の折々を詠んだ第一句集。 22日付けの讀賣新聞の「枝折」には、本井英句集『開落去来』が紹介されている。 くちなはの喰はるる順のめぎる来し 本井 英 「夏潮」主宰の第4句集。宇宙の力のままに人は自然と共にある。虚子の「花鳥諷詠」が通底する。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、コダマキョウコ句集『CẢM ƠN』より。 天の川わたるロスタイムは2分 コダマキョウコ 天の川といえば、昔々、織姫星と牽牛星がその川を渡って恋を成就した。中国のその七夕伝説にちなんで、天の川は恋の舞台になった。今日の句はロスタイム2分が恋人たちの必死の気配を伝える。もっともロスタイムは、サッカーが人気になって広がった和製語、すなわち、外国語の単語をもとにして日本で作った語である。 「ウラハイ=裏「週刊俳句」の「月曜日の一句」は相子智恵さんによって、池田澄子句集『思ってます』より。 机上に蛾白し小さし生きてなし 池田澄子 句集『思ってます』(2016.07 ふらんす堂)より 机上の蛾がクローズアップされていく。白くて小さくて…と生き物を描写していって、最後にそれは死んでいる、ということがわかる。しかも死んでいる、とは書かれていなくて〈生きてなし〉なのである。 「生きていて当然」と思える中七までが、下五でざっと裏返る。生きていそうな蛾が、しかし生きていないかった。死んでいると書かれるよりも〈生きてなし〉と書かれる方が喪失感が強いような気がする。 この句集には〈死んでいて月下や居なくなれぬ蛇〉という句もあるのだが、ここでは死んだまま穴に入ることもできず、どこにも居なくなれない蛇が出てくる。死んだら居なくなる、という常識的な概念は覆される。 「生きていない」と「死んでいる」の間には確かに違いがあるが、それぞれの句の中でその言葉の働きを見れば、これらの句には通底するものがあるように思う。死ぬことは居なくなれることではなく、逆に、生きているように見えて死んでいたりする。 その裏側には、私が生きていることと、彼らが生きていないこと(死んでいること)とはいつでも入れ替わる可能性があったのに、でも私は生きて彼らを見て俳句を書いていて、彼らは死んで見られる側にいるという不条理がある気がする。それを自分に引きつけるというか、引き受けて書いてしまうところに、作者の作家性を見る。 今日のおやつは奮発した。 (わたしが奢ったの。たまにはね。) なんと一個500円以上もするプリンだ。(端数は忘れちゃった) 8月のみ仙川駅前に行商(?)に来ているプリン屋さんのプリンである。 お店の女性に「高いわねえ」といいながら買った。(ほら、おばさんだから) その名は「侍(さむらい)プリン」。 侍とプリンがどこでどう意気投合するのかよくわかんないけど、これが結構売れているのだ。 ガラス製のコップに入っているのだが、このコップ、ワンカップ大関のコップとおなじ大きさであるらしい。 味は? 丁寧な味でまったりしている。 しかし、底に控えているカラメルソースが、なかなか渋くて苦い。 食べ終わった結論であるが、このカラメルソースを最後まで残さないようにうまくプリンと絡め合わせて食べるのがいいのではないか。ということ。 最後に残してしまうと、結構苦いものが口に残る。 そして姿勢を正して武士になった境地で、食べる。 プリンを武士のごとく食べるというこのよくわかんないアンビバレンスが面白いかも。。。。。 高いプリンだけれど、まっ、一度はお試しあれ。。 (しかし、プリンの侍は武士というよりやさくれた浪人という風貌かもね)
by fragie777
| 2016-08-23 19:09
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||