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8月22日(月) 旧暦7月20日
思いもかけない状態にびっくりしているような様子がある(?)。 台風がわたしたちの住む東京・調布市を襲った。 雨風がすごい。 わたしはレインコートを着、長靴を履いて出社。 しかし、不思議なことが起こった。 靴下はスニーカーソックスを穿いていたのだが、お昼ご飯を食べたあと、なんと片方しか穿いていないことに気づく。 ややっ、 これはどうしたことか。 右足は裸足である。 長靴のなかに置いてきたのかと長靴を確かめるが、ない。(二度も確かめた) どうしたのだろう。 家からは穿いてきたのに。 仕事場に落ちてないかと捜すが、ない。 わたしの右足のスニーカーソックスをわたしが知らない間に台風が運んでいってしまったらしい。(居眠りした時があったぞ) というわけでわたしは片方は裸足のまま上履きサンダルを履いて仕事をしている。 やはり間抜け感はいなめない。 (今日はお客さまがなくて良かった!) 新刊句集を紹介したい。 俳誌「夏潮」を主宰、「ホトトギス」「珊」同人の本井英(もとい・えい)氏の第4句集である。平成19年(2007)から平成26年(2016)までの8年間の作品を選句して収録したものである。 句集『開落去来』は『本井英句集』、『夏潮』、『八月』につぐ私の第四句集であり、平成十九年に創刊した俳誌「夏潮」が、平成二十七年十一月号をもって百号を迎えたことを自祝する出版である。 書名の「開落去来」は、私が大切にしている虚子の次の言葉からとった。 人生とは何か。私は唯月日の運行、花の開落、鳥の去来、それ等の如く人も亦生死して行くといふことだけを承知してゐます。私は自然と共にあるといふ心持で俳句を作つてゐます。(「ホトトギス」昭和二十四年四月号) 「月日の運行」も「花の開落」も「鳥の去来」も、それぞれ宇宙の必然の力のままに粛々と進行する。「人」とて例外ではない。宇宙の力は、「人」にだけ特別の権利を与えてくれているわけではない。「それ等の如く人も亦」には、「自然と共にある」という大きな覚悟が見てとれる。 「あとがき」を紹介した。 軽トラが代田植田と映りゆく スケッチ風の描写であるが、景色がはっきりと見えてくる。武蔵野の里山あたりを歩いているとこういう景に出くわすこともある。この句、肩に力がはいってなくてさっぱりとした述べ方が気持いい。本句集は、「あとがき」などを拝読すると著者の本井英さんの俳句というものへの思いがきっぱりと書かれていて、この詩形にこめる著者の気概がやや力を込めた形で伝わってくる。しかし、作品はどれも構えずに優しい表情をして、誤解を恐れずにいえば、リラックスしている。そこが魅力である。 日傘すこし浮かせて風を躱すかな この一句、ほんの一瞬をとらえたものだ。日傘はおおむね女性のものである。風を躱した女性の傘をさすその姿態があざやかに目に残る。大仰に構えないで対象を見るというフレキシブルさがないとこういう一句はできないのではないだろうか。 つつかけて来たる岩魚の釣られける 鳥も獣も蟲も魚も、さらには花も木も草も、われわれ人間とまったく同格に生まれ、生き、死んで行く。彼ら、言わば、この限りある小さな「地球号」に同乗する「仲間たち」を、良く見、聞き、知り、「あはれ」と感じ、讃美することが、我々の彼らへの礼儀であり、仁義なのではあるまいか。そこにこそ「花鳥諷詠」の根本的な立場があるのだと私は確信する。 これは帯に引用した「あとがき」である。すごく分かるが、「礼儀であり、仁義なのではあるまいか」とあると、やや硬い様な気がする。俳句にむきあうとき、また、自然に向き合うとき、著者の本井さんは、もっと自在である。自然や人間をもっと面白がっているようにわたしには思えてしまう。きっと一緒に吟行していて楽しい人なんだろうなあって思う。 噴水の根の水中にあるごとし 眼鏡はづして露の身と思ひけり 虫売にホステス風のしやがみこみ 鰰の山を鰰滑り落つ 駅ごとに霙だつたり雨だつたり 鶺鴒のひんひんひんと来て石に 紅梅の散りて泥濘かぐはしき 教へ子の名で呼んでゐる守宮かな 雨音を敷きひろげたる花野かな 無精髭一日そだて小春かな バレンタインデーと頭の片隅に ぶつかつてばかりのそいつ蟻の道 菌狩男の声の呼び交はし 出漁やがつんがつんと卯浪割り すれちがひざまの安香水なりき 老人に菊花展あり昼酒あり セーターの真つ赤より真つ白が派手 猿曳の猿に見せたる真顔かな 下萌えて第三駐車場ひろし 申し訳ないがグラジオラス嫌ひ 女装したがる年頃の運動会 忘年会幹事様子の良い男 シクラメン官能小説にも飽きて 五月鯉ピエタの如く抱き降ろし 草の間をくちなはの斑のながれけり 第4句集にあたる本句集の装幀について著者の希望は、「緑色に」ということだった。 ブックデザイナーの君嶋さんはそれを上品に知的に仕上げた。 カバーの折り返しの白が効いている。 タイトルは金箔押し。 今日の毎日新聞の文芸ジャーナリストの酒井佐忠さんの「詩歌の森へ」は、まさにこの本井英句集『開落去来』について書かれたものである。 とても良い批評であるので、全文を紹介したい。タイトルは「もののあわれの心」 本井英の新句集『開落去来』(ふらんす堂)を手にする。本井は俳誌「夏潮」主宰。高浜虚子研究をつづけ、虚子が戦中に疎開した長野県小諸市で、中堅俳人を講師として招くユニークな「こもろ・日盛俳句祭」を立ち上げた。新句集にも虚子の「花鳥諷詠」を基底に、現代人としての自然の眼差しが一句一句からにじみ出ている。 つつかけて来たる岩魚の釣られける ころげまはる蟬仕留めしは雀蜂 ぶつかつてばかりのそいつ蟻の道 魚とセミとハチとアリ…。いずれも小さな生物への視線が細やかだ。しかもそれぞれの生物同士の争いと生命のはかなさに、目を注ぐ。かとおもえば、のどやかな里山の自然の光景も見えてくる。 停車駅ではゆつくりと降れる雪 里山のおしるこ色に芽吹くかな などである。 「開落去来」の句集名は、虚子の言葉から来ている。「人生とは何か。私は唯月日の運行、花の開落、鳥の去来、それ等の如く人も亦生死して行くといふことだけを承知してゐます。…」さらに「人は戦争をする。悲しいことだ。併し蟻も戦争をする。蜂もする。(略)これも悲しいことだ。」と虚子はいい、そこに「もののあはれ」を感じると述べている。これらは新句集のあとがきに引用された言葉だが、作者の本井もまた、もののあわれと感じる心こそが詩歌の源泉であると確信する。 この評の初めに出てくるように本井英氏は、高浜虚子研究をずっと続けておられる。毎年「夏潮」の別冊号として「虚子研究号」を発行されている。俳壇に限らず錚々たるメンバーが虚子についての論を寄せている。この冊子を刊行しつづけるのはいろいろな意味において大変なことだと思う。 2016年の「虚子研究」。 本井氏の「『夏潮 虚子研究 第六号』発刊に際して」を一部のみであるが、抜粋して紹介したい。 (略)本誌は虚子研究の「ひらかれた小さな広場」を目指しております。したがって必ずしも虚子礼賛の研究ばかりを募っているわけではありません。虚子に対して否定的とは言わぬまでも、懐疑的なご研究でも、それが真摯な研究的態度で記されているものならば、喜んで掲載させて頂きたく考えております。 近年はそれほどでもないようですが、はじめから虚子を否定するための文章、やや誹謗に傾いた文言、あるいはあまり虚子を読んでおられないための誤謬も、未だ世の中には多く行われているようです。この「夏潮 虚子研究号」はそうした傾きを少しでも是正し、多くの方々の異なる視点から、豊かな虚子文学享受への道を拡げる一助となることを目指しております。(略) 今年もまた、今号刊行後の「余滴の会」があるという。 執筆者が一同に会して、そこでこの冊子を中心に語り合うというものだ。質疑応答大歓迎ということで、虚子に興味のある方はどなたでもということである。 興味のある方は是非にと、わたしもおすすめします。 「余滴の会」 日時 2016年9月3日(土曜日)午後二時より 場所 俳句文学館地下ホール(新宿 百人町) 参加費 無料 今日の台風を心配して、後藤比奈夫先生よりお電話をいただいた。 「どうですか? 東京は」 お優しい声だ。 「大変です。吹き荒れてます。神戸はいかがですか」 「ボクんとこは、いいお天気ですよ」 「あらら、そうなんですかあ」 そんな会話をして、電話を切ったのであるが、考えてみると100歳を超える比奈夫先生が、わたしたちを気遣ってくださる。 わたしたちが先生のお身体のことをもって気遣わなくてはいけないのに。。。 なんだか申し訳ない。 わたしの右足のスニーカーソックスは、とうとう出て来なかった。 わたしは長靴に右足だけ裸足を突っ込んで帰るのだ。 長靴だから、誰もわからないけどね。 わたしの右足はちょっと心細そうだ。
by fragie777
| 2016-08-22 20:38
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