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8月10日(水) 旧暦7月8日
鷹羽狩行先生より連絡が入り、「鷹羽狩行俳句集成」の年譜と句集解題のゲラをいただきに、日吉まで行く。 日吉駅の東急デパートの3階の「テルメ」という店に2時半にということで、いつもは渋谷乗り換えで行くのだが、今日は人混みを避け、稲田堤のりかえで行くことにした。 同じ場所に行くのでも、路線を変更すると見えてくる風景がまったく違う。 渋谷経由は、若者文化の潮流の真っ只中をいろんな刺戟を浴びながら、こちらもテンションを高めに歩行をゆるめずに突き進んでいく、そんな感じだ。 (アタシだって、まだまだ頑張る都会の女よ) おもわず気合が入る。 かつて勤めていた出版社も渋谷だったので、渋谷はなじみの場所であり、こういう空気をわたしは嫌いじゃない。 それが稲田堤経由ということになるとまったく気分が違う。 すっかり呑気になってしまう。 丹田の力をゆるめ、ちょっとぼおっとしながら電車に乗る。 乗り換えがいくつかあるが、人間が圧倒的に少ないのでのんびりした歩幅になる。 気分的にはこっちの方が樂だ。 今日は楽な路線で往復した。 どちらかと言えば、わたしは新宿や渋谷の都会の雑踏が好きだ。 シャンとしている、ことが要求される。 それがいい。 シャンとしている、 すごく、いい言葉だと思いません? (でも、家に帰るとyamaokaはヨレヨレのグタグタとなっちまう、、) 今日の坪内稔典さんの『船団の今日の一句』は池田澄子句集『思ってます』より。 道なりに私どこ行く草いきれ 池田澄子 句集『思ってます』(ふらんす堂)から。昨日の本村弘一の思いによく似ている。もっとも、弘一は死後を思っているが、澄子さんは今を思っている。 『思ってます』は題名通りに俳人が思った句集である。すなわち、認識で勝負した句集だ。作者が思いをかなり率直に表に出している。そのことをどのように評価するか、さて、これを読んでいるあなたは? まさか蛙になるとは尻尾なくなるとは 池田澄子 オタマジャクシ=カエルを意識や記憶のある存在として扱っている句で、その意味では擬人法と呼べるかもしれないが、その立場になりきり、オタマジャクシを内在的に経験したらこうも思うだろうということを想像して描いている点がやや特殊である。 しかしこの句は、オタマジャクシ=カエルであるということを想像的に追体験しているというだけではない。それと同時に、オタマジャクシが全く別の姿のカエルに成長してしまうことの驚異を、あくまで人の立場から観察した上で、その疎隔感を一挙に飛び越えてしまう口語調のレトリックで表現してもいるのである。 つまりこの句は、想像力によるオタマジャクシ=カエルとのアニミズム的な一体化と、ルナール『博物誌』にも通じる、人の立場からなされたアフォリズム的な言葉によるクールな考察と彫琢との、両方に通じる回路を持っている。統合と分離が同時になされているというべきか。統合と分離は、優しさと節度というふうに置きかえることも可能だろう。 このオタマジャクシからカエルへの驚異的な変態、それに近い事態が、見ている人間の側にも起きていないとは限らない。生死のなかで起こる変化をわれわれは何ほども理解できていないであろうからだ。アフォリズム的な緊張に満ちた言葉の洞察は、そうしたことをも一瞬で感じさせる。その総体をつらぬく洒脱さ。 句集『思ってます』(2016.7 ふらんす堂)所収。 おなじく「週刊俳句」の福田若之さんによる「『寒林』について書くことができないでいること」という高柳克弘句集『寒林』評が面白い。哲学者ニーチェを引き合いに出し、「寒林論」を展開している。思いもかけない視座からのアクセスだ。句集『寒林』をこんな風に読もうとしているということ、あるいはこういう批評の方法もあるのだということも新鮮だ。 明日からふらんす堂は夏期休暇に入ります。 ふらんす堂は休みでも、おそらくyamaokaは仕事をすると思いますが、電話は留守電となりますので、電話をいただいても出ることはありません。アシカラズ。 留守電にしておくとコールしないから気づかないのです。 この夏期休暇で日ごろできないことを一気に片付けてしまおうっていう魂胆(?)ですが、おそらくどのくらいできるか、きっとわたしのことだから遊び遊びの仕事となる、本を読んだり映画をみたり、いいじゃあないですか、休みなんだから。 ちょっとは出かけるかも。。。。。 皆さまはどうぞ良きバカンスを。 ああ、そうだ、 シャンの語源は、ドイツ語からで旧姓高校の学生語で美人(!)という意味だった。 あはっ。
by fragie777
| 2016-08-10 20:23
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