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8月6日(土) 広島原爆忌 旧暦7月3日
とは、わたしが勝手につけた名前。(略して白太) 正式名はあると思うわよ。 バスに乗った。 となりに少女が座った。 少女もわたしもiPhoneを握りしめている。 見ればおんなじ画面。 当然、ポケモンgo(本当はGOなんだけど、わたしの歩みはつつましやかだから(?!) 「ねえ、レベルいくつ?」 って聞こうと思ったけど、少女の後にはお母さんらしき人が乗っていたんで聞くことをやめた。 その時、ポケモンのコラッタが現れた。 わたしはつかさずゲット。 少女の方をみると、捕獲してないみたいだ。 (フフフ、わたしの勝ちね) とこころの中でガッツポーズをしたのだった。 俳誌「銀化」8月号が送られてきた。 そこに安里琉太さんという方(わたしはちょっと存じ上げないのだけど)が、田中裕明について力の入った論考をされている。田中裕明作品30句の抄出もある。タイトルは「詠み捨てられる俳句をどう超えるか」。これを抜粋するのは本当に申し訳ないのだが、抜粋する。(許されよ)興味ある方は是非に「銀化」8月号を読んで欲しいと思う。 (この「銀化」8月号の田中裕明論は森賀まりさんも読まれていて、面白かったとおっしゃっていた。「読まれる存在としての田中を意識した」とも。) 安里さんは、裕明を論ずるにあたって、小川軽舟著『現代俳句の海図 昭和三十年代俳人たちの行方』を手がかりにしていく。 平成の俳壇の海図において、田中裕明は、残された作品が如何に読まれるかという点において期待されている。今後書き進められることはない。未完の空白として海図に記される。未だに、平成の俳壇は相変わらす無風だと言われてやまない。いつしか、それは、裕明がもし生きていたら、きっと……。きっと、という期待を呼ぶまでに膨らんでいた。裕明作品という空白には、どのような期待が投げ込まれているのか。 (略) 本論の目的は、平成の俳壇の空白として想定された裕明作品が、どのように書かれていくはずだったのかを考えることにある。 現代に田中裕明の名が冠せられた賞がある。「田中裕明賞」は、今年で第7回。多くの有力な句集を見出し、現代の賞の中でも、強く機能している賞だと言える。人名を冠した賞は、その名の顕彰と、その作家の作風なり姿勢なりが、受賞者に期待されることが多い。裕明が書こうとしたものが問い直されているとしたらここに何かが見られるかもしれない。第7回は、北大路翼の『天使の涎』が受賞しており、裕明作品とは似ても似つかないところを見ると、俳句への姿勢、新しい俳句への期待こそが同賞の核になっているのかもしれない。ただ、選考委員の四ッ谷龍が、ほぼ毎回の選考で言及するリフレインと韻の重要性を見逃すことができない。 四ッ谷は、2005年4月号「俳句研究」に、裕明晩年の吟行に同行し、そこで誕生した十三句の、複雑で均整の取れた韻の構成に叫喚したことを書いている。一つ挙げたい。 草かげろふ口髭たかきデスマスク 四ッ谷は、吟行の最中で十三句を作りながら、これほどの技巧を凝らすのは難しく、神韻とでも言うべきものであると評価している。こうした裕明評価を考えると、四ッ谷の「田中裕明賞」への期待を伺うことができる。 晩年の裕明作品の韻という観点は、最後になった第5句集『夜の客人』の一つの傾向と言える。既に使ったロジックから考えると、『夜の客人』に所載された句は、言わずもがな2002年刊の『先生から手紙』編集時代から作られているはずだ。『夜の客人』所載の句作りを支えた思想はいかなるものだったのか。 それは意外にも、「銀化」創刊5周年記念号にあった。田中裕明は、中原主宰の句を鑑賞しながら、「俳と詩の融合」について書いている。 「詩」と「俳」の融合という命題は、いろいろなことを考えさせる刺戟に富んでいます。自 己と他者、宴と孤独、季物と写生、そして芸術と自然。そこに重奏性も生まれてきます。 兼ねてより、俳句が詩であることを述べていた裕明。小川は、詩情を回復してから、『櫻姫譚』の空転を脱却したと批評する。晩年の裕明の志向する詩情の思索は、引用した「自己と他者」「宴と孤独」「季物と写生」といった、二項対立の間にこそあったのではないか。 俳句が詩として、「自己と他者」「宴と孤独」「季物と写生」の間を越境し、克服する瞬間がある。それは、ほかの言葉に触発され、記憶の底から、ふっと俳句が読み手に立ち上がる瞬間である。 メディアの氾濫する平成において、俳句が書き捨てられるものではなく、折々ふっと口をついて出るという”身体的”な行為である時、詩は生の側に呼び戻される。裕明の晩年の「神韻」はきっとそれを可能にしたはずだ。 言葉が生の側に呼びなおされること。 それは、裕明作品がすでに行っていることであり、書かれる俳句が満ちた平成の俳壇の空白の、補助線になる。 「田中裕明賞」への期待も感じられる評論であることが、嬉しい。 わたしは、この「『櫻姫譚』の空転」という小川軽舟さんの論考をもう少しわかりたく、いただいてあったはずの『現代俳句の系図』を読むべく資料棚を捜したのだが結局無かったので、アマゾンより取り寄せて読み直した。 『櫻姫譚』では主観の空転が目立つ。読者を突き放すような独善性は、俳句には似合わない。(略)田中は『花間一壺』の完成した世界を自ら壊しにかかっている。爽波もそれを励まそうとしただろう。『櫻姫譚』はそのような句集だと思えば飲み込みやすい。田中の俳句には、古典に傾斜しすぎて現実から遊離しているという批判が付きまとった。 小川さんの『櫻姫譚』評をあらためて、読んだ。 そうなのか。。。 しかし、実は、第6回の田中裕明賞の受賞俳人である鴇田智哉さんは、「『櫻姫譚』が最近面白いと思うんです」とふっとおっしゃった。わたしはつかさず、「それでは、鴇田さんの田中裕明論を書いてください」と、「ふらんす堂通信」にお願いしてしまったのだ。先日お会いしたときに「お原稿、どうですか?」とお尋ねしたら、「なんだか肩に力が入っちゃって」とちょっとうつむかれたのだった。 鴇田さま、yamaokaは待ちますので、よろしくお願いいたします。 ところで、小川軽舟さんの「裕明論」を読みながらわたしは不覚にも何度か落涙しそうになった。小川さんの田中裕明を見つめる目とその思いがいいのだ。「田中の澄んだ眼差しは今もそこにあるように思われる」と書く小川さんだが、田中さんをややまぶしそうに見上げる小川さんの思いもまた溢れていると思ったのだ。 そこに引用されている田中裕明の「ゆう」の創刊号の言葉をここにもう一度記しておきたい。 新しい俳句ということを考えてゆきたい。新しい俳句を作ることによって新しい自分に出会いたい。そういうことを考えています。 「ゆう」を創刊することは、「新しい自分に出会う」ためというのが、田中裕明さんらしいなあ。
by fragie777
| 2016-08-06 19:14
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